抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

美意識のセクト・百合文化

文=寝惚なまこ

 

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 筋張ってツンとひるがえった白い花被、その中心部から伸びるしたたかな花柱と先端で昏く貪欲な威光を放つ花頭の雌蕊。種々あるユリ科の花々のメルクマールとも言うべき身の締まるような気位の高さと手招きするようなおどろおどろしい憎悪をのぞかせるアンバランスな美しさは、花弁の清らな明るさの白百合を眺めるときにより一層つまびらかに理解できる。根を同じくしながらも情趣のそれぞれ異なるために好対照をなす花被と雌蕊の関係性を自然界から救い上げ人界に移植する不遜が許されるのなら、互いに個として屹立しながら融和的な交際を展開してゆく女性同士の恋愛を描いたいわゆるガールズラブが百合の花の名で称されることにも、男性同士の恋愛の謂いである薔薇との対比以上の意味が見出されないだろうか。語源は諸説あるにせよ調和と反撥の止揚を経路にして一つの美意識を露わにする百合というジャンルに魅入られた私が数年前、大学受験のため単身降り立った東京で逢着したのが当時の百合界隈でカルト的な人気を博していた玄鉄絢の漫画作品『少女セクト』だった。

少女セクト』は2003年から二年間に亘って漫画雑誌『コミックメガストア』上で発表された作品であり、壮美かつ可愛らしい少女たちの描画や軽妙な台詞回しが特徴とされる。女子校と学生寮を舞台にして進行するこの物語は各話ごとに焦点の当たるカップルが変わる群像劇の形式を取りながら、学生寮に形成したハーレムの主で素行不良の常習犯である潘田思信と、彼女に目くじらを立てながら自らもモテ気質な風紀委員の内藤桃子という主人公二人の関係を描いてゆく。

 物語は桃子が同寮住まいの少女、紅緒と賭けをする場面から始まる。互いの載せたチップは「中華街の小籠包食い放題」「ケンタのチキン キールだけ五十ピース」で勝負の内容は「紅緒の友人・菖蒲の唇を奪う」こと。権謀術数をめぐらし善戦するも敗れた桃子は最終的にカップルとなった紅緒と菖蒲のキスシーンを見せつけられ第一話は幕を閉じる。それぞれの話は独立したものとして楽しめるラブコメディ風味になっているが、物語が進むにつれてますますハーレムは拡充の一途を辿り、女性教員と「お付き合い」を始める桃子と、彼女に「十二年越しの片思い」を続けながら寮生といちゃこら三昧の思信の関係性はコミカルな表現とは裏腹に複雑怪奇で無軌道にも思える情動の悲劇的な側面を露わにしていく。

概観からは際立った特徴も表れづらいこのシリーズの単行本は今も手許にあり、一巻の帯には「乙女の愛情争奪戦‼ 女の子らしさ全開であの娘のハートを狙いうち♡」と銘打たれているのを見るとなにやら少女同士のゆるふわな関係性を主題にしたポップな作品にも思えるし、だから初めて手に取ったときも正直な所あまり期待は寄せていなかったのだが、邂逅から数年たった今もなお度々読み返しては感慨にふけるよう強いる『少女セクト』の魅力はあらすじからは浮き彫りにしづらい作品の雰囲気のようなもの、一言で表せば美意識にある。

 絵柄は個々の漫画作品を唯一無二たらしめる要素のひとつだけれど、玄鉄絢の描く少女もまた特徴的だ。全体的に繊細な描線で、お餅のように柔らかな人物の輪郭、太陽黒点のように底知れない力強さを覗かせる瞳、一話ごとに変わる制服(!)の複雑さはさることながら、特に髪型の描写の細かさと再現性は鬼気迫るものがあり、嗜好の関数ではなく個人性の複写として形姿を深刻に捉える描画には人間存在に向き合い削り合うよう作者を駆動させる衝迫が見え隠れする。髪は女の命とはよく言ったもの。

また台詞回しにも面白味があり、本筋と一見無関係で諧謔に富む長台詞の応酬は人物のバックグラウンドを浮かび上がらせたり繊細な心情の覗き穴になったりと、人物の発する言葉は物語進行の立役者であるばかりではなく、作品世界そのものを明らかにする試錐の穿孔でもある。そこから見えるのは現実世界にも顕れるままならなさと、それに対峙することで世界の理想的な姿を照射する美意識。玄鉄絢という根を共有する二つの秩序は重なり合うことで互いの輪郭を明瞭にしていく。『少女セクト』は気の触れたような美意識のサンプルとして私を魅了しつづける。

 管見の範囲内ではあるが、多く物語作品はそれが展開するための力として論理を必要としている。それは人間関係上に生起する感情だったり、個人性を喪失させる集団心理だったり、一切の人々に宿命づけられた死であったり、万有引力などの自然法則だったり、様態はさまざまの因果律によって物語は一つの筋を辿ることができる。この論理は骨格であると同時に眼目でもあり、文学作品の批評文を紐解けば顕著なように、いわゆる現実世界の因果律をどれだけ正確に解きほぐしているかによって物語の価値が左右される場合も少なくない。これに背くように現実の論理よりも美意識による世界構築を選び取る猛者が多いのも、『少女セクト』を始めとした百合というジャンルの魅力の一つに挙げられるだろう。微に入り細に入り美意識がそのまま表現と結びつく漫画や小説などの媒体において、物語をも美意識によって支配することはとりもなおさず作品を徹頭徹尾みずからの美意識で統御することを意味する。審美眼のない割に細部にこだわりすぎる悪癖のある私のような人間でも、ぱっと見でビビッとくる作品を手に取れば大方アタリを引けるという甘美な花園の百合畑である。

 この美意識に依って立つ物語という百合ジャンルの特性は、百合という語の使われる以前、少女小説の大家である吉屋信子の短編集『花物語』にすでに認められる。流れるような調べを持つ音楽的な文体、人格の高貴さと形姿の優美さとを重ね合わせる筆致は源氏物語など古典文学への回帰を見せており、耽美に偏重する向きもあるがこれじたい美意識の明確な発露に思われる。全編に亘って美感に訴えようとする『花物語』のなかでも「ダーリヤ」に描かれた精神性の美しさに私はちょっと参っている。

 きょうだいの多く裕福ではない家に生まれ、女学校を諦め、慈善病院でみすぼらしく汚らしい患者たち相手に働く看護婦である主人公・道子はある晩、同じ小学校を卒業した豪家の令嬢・春恵が救急で手術を受ける場に立ち会った。道子の看病の甲斐もあって回復した春恵、その父からの、道子を自分の家に迎えて春恵と共に相当の教育を受けさせたいという申し出を、しかし道子は断ってしまう。看護婦として働き続けるという自らの使命を悟った道子は、栄華な未来への未練を振り切るようにして、春恵から送られた思い出深いダーリヤの花束を川に投げ捨てたのだった。

 以上が「ダーリヤ」の簡単なあらすじであるが、この短編を読了し終えたとき、歓喜に塗れた呪いがとぐろを巻いている感覚があった。栄転の道を自ら棒に振った道子のことを誰も理解できないからだ。家族も、春恵も、父も、慈善病院の院長も、道子の担当する患者も、そして将来の道子本人でさえも身を投げうつような決心を若さゆえの愚かさだと忌まわしい気分で回顧するだろう。自身が慈善病院に仕えることの誇りをいつか彼女は忘れ、後悔だけの日々が予定されている。そしてそれら全てを織り込み済みで、誰も幸福にならないことを承知の上だったからこそ道子はダーリヤを捨てたのだ。決心の正しさと、避けられない後悔とをはっきりと悟った道子は華やかな未来を象徴する花束を捨てることで自分の将来を決定づけた、換言すれば呪ったのである。

 

 私たちは日々老いてゆくし、倫理観や正義感や美意識を研鑽しつづけても、いつかそれら全てを老醜で拭い去って、若かった頃の確信を若気の至りで片付けて、いそいそと居心地の良い棺桶作りに勤しむ日がやってくる。しかしダーリヤを捨てた道子の身体は精神のありように関わらず看護婦として駆動しつづける。それは自らの可能性を捨てた者の祈りが持つ物質性がゆえ。若き看護婦の殉教は彼女を奉仕者の位置に縛り付ける。そしてそれは他でもない彼女自身が一瞬のうちに果たした決心のためなのだ。

美意識は時として現実のロジック以上に私たちの心臓を鷲掴みにして世界の有り様の是非を問いかける。現実を見ない蛮勇は往々にして盛者必衰の理の下敷きになり夢の跡を留めるに過ぎないけれど、世界としのぎを削る営為を否定する材料には残念ながら十分ではない。

 願わくはこれを読んでくれたあなたの手にも、世界の重さと釣り合うような百合の花束が届きますように。

アニメソング - 大槻ケンヂと絶望少女たち「林檎もぎれビーム!」

文=竹宮猿麿

 

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ゼロ年代最後の年の2009年、筆者はまだ中学生で、社会や文化の雰囲気はどこか薄暗かった。当時の筆者は「将来はサラリーマンになりたい」と漠然と思っていた。サラリーマンは「ふつうの人間」だけが成れる職業だという感覚がなんとなくあったからだった。当時のクラスメイトや塾の友人たちも、サラリーマンになりたいと「しきりに」言っていた記憶があるので、そうした感覚を持っていたのはおそらく筆者だけではなかったのだろう。当時を思い返すと、ゼロ年代後半というのは「ふつうは素晴らしいことだ」という新しい価値観が出現しはじめた時期、そして、自分を「ふつう」以下の人間だと見做すような自己肯定感の低さが中高生のあいだに蔓延していた時期だったという印象がある。

当時の閉塞感は、明らかに中学生に悪影響を及ぼしまくっていた。筆者の記憶が正しければ、ゼロ年代後半は小学生から高校生までが結構頻繁に「死ね」という言葉を口にしていたし、アニメやライトノベルといったオタクカルチャーが本格的に盛り上がっていた影では、メンヘラや引きこもりの存在が若年層にかなり強く意識されつつあった。筆者と仲の良かったクラスメイトもいきなり学校に来なくなってしまった。彼の友人は、最後のほうは筆者しかいなかったはずだ。しかし、筆者にはどうすることもできなかった。クラス内での権力闘争に敗北し、いじめられ、転校していった隣のクラスの女子は筆者が放課後によく一緒にだべっていた友人のひとりだった。彼女はリストカットを繰り返していた。

 

そのように少し荒れ気味だったゼロ年代後半の雰囲気のなかで、連載され、アニメ化されていたのが「絶望先生」こと糸色望を主人公とする漫画『さよなら絶望先生』だった。

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アニメのほうをきちんと見たことがあるわけではないので、漫画のほうの知識だけで語らざるをえないが、『さよなら絶望先生』は、時事ネタやあるあるネタをよく扱う風刺性の強い作品である。そうした性質上、他の漫画よりも情報量が多い。基本的には一話完結型の作品であり、物語らしい物語があるわけではないため、そのあらすじについて詳しく述べる必要は特にないだろう。なのでざっくり言ってしまうと、『さよなら絶望先生』とは、絶望してはすぐ死のうとするコミカルな高校教師が癖の強い生徒たちとわちゃわちゃするという、ただそれだけの話である。

筆者が『さよなら絶望先生』のアニメの存在を知ったのは2009年のことだった。当時それはちょうど第三期を迎えていた。当時の筆者は、たとえばNHK衛星第2テレビジョンで放送された「ザ☆ネットスター!」(2008年4月~2010年2月)で東浩紀とやる夫を初めて知ったぐらいにはサブカルチャーに疎かった。だから、『絶望先生』第三期主題歌の「林檎もぎれビーム!」をメインで歌っている「サブカルの帝王」大槻ケンジのことも『絶望先生』を通して知った。オープニングの主題歌を歌う彼の歌唱はお世辞にも上手いものではなかったが、そのかわり、味があって、粗雑でありながらも魅力的であるように思われた。

しかし、当時において印象深かったのは、大槻ケンヂではなく、絶望少女たちのほうだった。

絶望少女たちとは「絶望先生」の生徒たちで、「絶望先生」なんかよりずっと主人公らしいぐらい、それぞれキャラ立ちしている。学校という舞台の主人公が教師ではなく生徒であるとかいう話をしているのではない。彼女たちは、それぞれ癖が強く、しかも割と理解できなさそうな変な内面を持っている。つまり、絶望少女たちは個性、それも他のキャラクターとの差異を超えた、自立した個性を持っているのだ。

絶望少女たちが互いに明確に異なる個性を持っているということは、アニメにおいては彼女たち個々の声の特徴によくあらわれていると思う。個性的なものが大量に共存しているシチュエーションが好きな筆者にとって、「林檎もぎれビーム!」のなかで、彼女たちの個性的な声が、それぞれの独自の響きを損なわれることなく、他の個性的な声と次々と組み合わされていくさま、全員の個性がひとつも蔑ろにされることなく平等に扱われているさまには非常にぐっと来るものがあった。

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しかし、そんなことよりも筆者を遥かに感動させたポイントがある。あなたはもうすでにオープニングのサビの部分をご覧になられただろうか。絶望少女たちが声を揃えて「林檎、もぎれ、ビーム」と歌っている部分だ。

当時の筆者は、自分の周りに強力な秩序がもたらされることを願い続けていた。自分の属する無秩序な学校社会に心を痛めていたからだったが、その一方、教室内の秩序が回復することはもうなく、秩序が回復したところで失われた人々が戻ってくるわけではないこともとうの昔に理解していた。そんな当時の筆者にとって、絶望少女たちの「林檎、もぎれ、ビーム」という合唱と、それと同時に画面に表示される彼女たちの手の映像は、一生手に入らないだろう理想的な世界の象徴、すなわち、「人々が個性を失うことなく秩序のなかで統合されている状態」の象徴に他ならなかった。歌詞に出てくる言葉を引用するなら、そうした世界はまさしく筆者の「パラダイス」だった。

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林檎もぎれビーム!」のサビでは、大槻ケンヂが「向こう側へ/絶望のわずかな」と歌ったあと、絶望少女たちがすかさず「こっちがわへ」と歌い、聞き手を誘惑する。それが素直な誘惑ではないことは、たとえば彼女たちが他の箇所で述べている「お仕事でやってるだけかもよ」「マニュアルではめてるだけかもよ」という冷笑的なセリフから明らかだ。しかし、だからこそ、聞き手は彼女たちのいる「向こう側」と距離を取り、「向こう側」を甘やかなファンタジーとして受け止め、彼女たちの誘惑を心地よい嘘と見做し、それに安心して身を委ねることができる。セイレーンはその歌声によって聞き手を引きつけ、聞き手の身を滅ぼしてしまうが、絶望少女たちは聞き手をクールに突き放してなにも滅ぼさない。彼女たちは、その歌声においてすべてを甘やかに放置する。

悪いオタクとは何か、そしてこのオタクソングがすごい!という話

文=秋津燈太郎

 

先日、印象に残った今年のオタクソング(アニソン、ゲーソン、声優の楽曲など)を紹介してくれと悪いオタクの友人に頼まれた。どうせブログのネタもないしざっくり紹介するかと思っていたのだが、どのような基準で選んでいるのかを示さないと散漫な印象を与えかねないため、私がどのような種類の「悪いオタク」で、日頃どのような態度でアニソンなどを消費しているかを簡単に説明する。

 

◾️悪いオタクとは?

ネットサーフィンやアニメ鑑賞が生活の一部になっているからだろうか、おれは悪いオタクだからとか、それは悪いオタク(の行動)ですよとか、何かにつけて「悪いオタク」という言葉を使っているのだが、それの確たる意味は正直よく知らない。「どうせ独自すぎる解釈を他人に押し付けることでしょ」などとゆるふわな理解をしていて、ネットで用例を調べてみた限りでは間違いではないらしいけれど、どうやら他の意味も色々とあるらしい。その分類はおおむね以下の4種類にわけられる。

 

①マナーの悪いオタク

②自分と合わない人との関係を容赦なく切り捨てるオタク

③自身の解釈を強要するオタク

④現実の物事 を自分の好きな作品の世界観で解釈するオタク

 

自分の行動を照らし合わせてみると、①に関しては気をつけているから身に覚えはあまりなく、②は無意識下でやっているかもしれない。

は思い当たる節はあるのだが、議論の流れだったり、あるいは私の話を必要以上に受け入れすぎたりと、結果論としか言えないケースも多々あるのでグレーだ。

もっとも深刻だと自覚しているのは④であり、隙あらば好きな作品の世界観を通してものごとを解するのは日常茶飯事。そのなかでも、名設定や名言をコンスタントに生み出す『HUNTER×HUNTER』にはとりわけお世話になっている。たとえば、多弁のせいで身を滅ぼすひとを見ては「答えは沈黙」などと心のなかで呟いて、同僚がこれまで誰も気付かなかった問題を発見したときなどは、問題を見抜く眼を持ちながら対処する実力まではない人間が首を突っ込んだら身を滅ぼすのを同作品で学んでいるので、独断での対処は控えるよう忠告している(ヨークシン編でクロロの手刀を見逃さなかったひと)。

どうにもピンとこない方は、人生を漫画にたとえる人間のようなものだと思って欲しい。

 

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クロロの手刀を見逃さず、単独で彼を仕留めに向かったおじさんは無残な最期を迎える。他人の力量をなんとなく推し量れるけれども対処まではできない、中途半端に優秀な人間の例である(ゲェーン!!)

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また、上記4種類の他にも見過ごせないと思われる点もひとつある

 

⑤無闇やたらと作品外部の文脈を解釈に利用するオタク

 

これは④と似ているように思えるが、現実の物事を解釈しているわけではない点、そして、外部の世界観、あるいは法則を適用しているわけではない点において異なる。引用するのはあくまで作品に携わっている人々の文脈や事実、ありていに言えば予備知識に他ならない。

実績に基づいて対象を理解する特性上、作家論を考える場合はそこそこ役立つ一方で、作品そのものを読解する際にはあまり意味をなさないところに難がある。とあるプロジェクトの企画段階において、成功した昔のプロジェクトに使われた方法を無思慮に採用することが危険なのは察しがつくのではないだろうか。

とはいえ、外部の文脈を踏まえることで作品をより魅力的に感じられたり感慨を得られたりするケースは確かにあるので、盛り上がりながら作品を楽しむ方法としては悪くないのもまた事実。私自身、作品を娯楽として消費するときは⑤の方法をよく使っており、オタクソングもまたご多聞に漏れずである。たとえば、Q-MHz東山奈央の楽曲「I,my,me,our Mulberryにおいて東山は性質のことなる複数の声を使い分け、あたかもツインボーカルであるかのように演じているが、『艦これ』で金剛四姉妹をひとりで演じた実績を踏まえれば「正しい使い方」であると感じられるのである。

今回は⑤において印象深かった楽曲を紹介する次第である。言うまでもなく、条件・前提において作品への評価や意見はだいぶ異なる。質そのものがより優れていたり魅力的だったりする曲は他にもあるだろうし、今回紹介する曲にせよ、別の切口から考えればより面白く観えるかもしれないことははじめに断っておきたい。(他人に教えられないという前提において、徳は知識ではないとソクラテスが結論づけたように)

とりあえず説明に手間取ったので前編で2曲ほど紹介し、もし需要があれば後編で3曲ほど取り上げたい。

  

◾️SKY-HI「Diver’s High」

 

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ガンダムビルドファイターズのOP。MVを観ればすぐにわかることなので殊更言うまでもないのだが、あるときはAAAの日高光啓として、あるときはラッパーのSKY-HIとして活動する彼はとにかく顔が良い。

この曲は、元東京事変亀田誠治と、UNISON SQUARE GARDENの斎藤宏介を迎えたことでも話題になった。個人的にポイントが高かったのは、スカパラの「白と黒のモントゥーノ」やスガシカオの「Music Train ~春の魔術師~」、尾崎世界観の「栞」など、とにかくボーカリストとしてのゲストが多い斎藤宏介をはじめて“ギタリスト”として招いた点。

UNISON SQUARE GARDENの曲をよく聴いているSKY-HIは、かねてから斎藤のギターのプレイングにも注目していたらしく、とにかくエフェクターの踏み替えの多いユニゾンの複雑な楽曲を完璧に弾きこなす様子を「タップダンスを踊ってるみたい」とラジオで言及していた。(たしか自身のラジオであるACT A FOOLだったと思う)

まぁよく観ているものだと感心するが、実はこのふたり、早稲田実業高校と早稲田大学の先輩後輩で、在学中から互いに意識していたのだという。

1985年生まれで先輩の斎藤宏介は、ひたすら顔が良くてモテそうなSKY-HIに多少の嫉みを感じ、対する1986年生まれで後輩のSKY-HIはといえば、校則を平気で破り、一匹狼的な雰囲気を醸し出していた斎藤宏介に憧れと少しの畏怖をおぼえていたそう。そんなふたりが三十路過ぎになってようやく共作したのだから、両者のファンとしては喜びもひとしおなのだ。

 

 

◾️中島愛「サブマリーン」

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中島愛という名前に聞き覚えのない方は、『マクロスFのヒロイン、ランカ・リーの中の人と聞けばピンとくるだろうか。

2008年当時、19歳でランカ・リー役に抜擢された彼女もいまや29歳。若くして脚光を浴びた彼女であったが、マクロス以降の歌手活動は山あり谷ありだったようで、3rdアルバムを発表した2014年に歌手活動を休止をし、2年後の2016年に活動を再開、それからさらに2年後の今年になってようやく4thアルバムの『Curiosity』を発表した。

本アルバムの最大の特徴は、経験ゆたかな作詞曲家(新藤晴一本間昭光フジファブリック前山田健一など)がこれまで以上に多く制作に加わることで、どうしてもランカの影の見え隠れする曲ばかりだった3rdまでに比べて多様性が増し、それによって公共性が上がっている点にある。ここでいう楽曲の公共性とは、楽曲を楽しめる視聴者の幅を意味し、一般ウケを狙って本来の持ち味を失うことでは決してない。それどころか、歌手としてのポテンシャル・引き出しは前作までよりも活かされており、「Life’s The Party Time!!」では溌剌とした歌唱を、「サタデー・ナイト・エスチョン」では楽曲の展開に合わせたメリハリのある歌唱を、「未来の記憶」は彼女が元々得意としてきた儚げな歌唱を披露している。

では、様々ないろどりを放つそれらの楽曲に比べて「サブマリーン」は何において特出しているのかと言うと、ひとことで表現するなら、不自然さである。

先に列挙した曲は、曲調と歌詞がマッチしている点において「自然」だが、「サブマリーン」はその真逆。底抜けに牧歌的でご機嫌な曲調なのにも関わらず、歌詞では人間関係への絶望や現実に対する過酷な認識が表現されていて「不自然」である。

ベッドに沈んだままで 今は逃避のサブマリーン

潜望鏡を伸ばしては 外の世界を覗き見ている

 

行き交う人 恋する人 夢みる人の目が眩しすぎて

 

ここは静かな海 息を潜めて 涙が作る小さな海 一人きりの

いつまでもここにはいられはしない

浮かび上がる準備しなくっちゃ そろそろ

水面はキラキラと輝くだけじゃない 嵐の夜もきっとまたくる

どんな時も私の船の舵はこの手でぎゅっと 握っていよう

 

私の悪口を言う 友達たちの歪んだ口

潜望鏡を音も立てず 海の中に下ろして泣いたの

 

信じること 交わること 手をとりあうことは簡単じゃない

 

そこは猟奇の森 危険でいっぱい 赤く光る目が私を見つめている

いつまでもここにはいられはしない 強くなる準備しなくちゃ いよいよ

世界はキラキラと輝くだけじゃない 孤独な夜もきっとまたくる

闇の中に落ち込まないようにあなたの声を 聞かせて欲しい

 

誰もいない 遠い海の上 森の空の上

見上げている 祈っている 無数の星 今夜は 歌っていてね

 

ここはリアルの街 地面を踏んで 大人の顔に微笑みを 絶やさないの

心にはサブマリーン 感情全部 誰にも見せたりはしない 大事な場所

 

大事な場所 私だけのサブマリーン

大事な場所 秘密の場所

誰にも届かない場所は この胸 

あたかも孤独が一生続くかのような詞を提供したのは、ポルノグラフィティのギタリストである新藤晴一である。私なんかは思春期に『ミュージック・アワー』などを聞いて育ったR.N.”恋するウサギちゃん”世代なので馴染み深いのだが、様々な音楽ジャンルやミュージシャンの台頭のせいか、最近は昔ほど話題にならないポルノグラフィティ伸びやかなボーカル、そして無骨さでありながらどこか可愛げのあるサウンドが特徴的であるが、かつて私がよく聴いていた理由は歌詞にあり、過去、現在、未来のあまねく時間において運命に支配され続けるのが人間であると言わんばかりの絶望感が好きだった。

無知無能であるゆえに他人を情を抱かずにおれない人間たち、つまり、愚者たちと関わらねばならない天使の気苦労と諦念を示した「オレ、天使」。

”悲しみが友の様に語りかけてくる 永遠に寄り添って僕らは生きていく”という一節が印象的な「シスター」。

基本的には頭から結まで流れの決まっている演劇と、どう足掻いても運命を受け入れざるを得ない限界を重ね合わせた「ジョバイロ」は、新藤晴一の作詞スタイルを端的に表している。

人は誰も哀れな星 輝いては流れてゆく

燃え尽きると知りながらも誰かに気付いて欲しかった

 

胸に挿した一輪の薔薇が赤い蜥蜴に変る夜

冷たく濡れた舌に探りあてられた孤独に慣れた心

 

舞台の真ん中に躍り出るほどの

役どころじゃないと自分がわかっている

 

あなたが気付かせた恋が あなたなしで育っていく

悲しい花つける前に 小さな芽を摘んでほしい

闇に浮かんだ篝火に照らされたら

ジョバイロジョバイロ

それでも夜が優しいのは見て見ぬ振りしてくれるから

 自分のこころを「静かな海」、現実を「猟奇の森」と見做し、人間関係における孤独を受け入れる「サブマリーン」の語り手。「遠い海の上」や「森の空の上」という自身から遠く離れた場所に輝く「無数の星(≒あなた)」の歌声をよすがに生きる人間は、私にとって懐かしい友人のように思えてならなかったのだ。

【連載:ゲームと選択肢】第二回 『OneShot』

文=一条めぐる(@ichijo_meguru)(同人サークル「あるふぁちっく」主宰)

 

こんにちは、一条めぐるです。

今回は、前回の最後で言及した「選択すること」について『OneShot』というゲームの紹介を交えながら書きます。

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www.youtube.comストアページはこちら

 

【『OneShot』とは】

『OneShot』とは、2016年12月9日にsteamでリリースされたゲームです。
『OneShot』は2014年にフリーゲームとして配布されたものが最初であり、このオリジナル版はゲーム制作ツール『RPGツクール2003』で制作されています。その後、2016年に『RPGツクールXP』で制作されたのがリメイク版です。

今回ご紹介するのは、このリメイク版のほうです。その点についてはあらかじめご了承ください。

また『OneShot』は、ネタバレを読んでいるかどうかでプレイの質が大きく変わる作品なので、重大なネタバレは避けますが一応ご留意ください。

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【『OneShot』の概要】
『OneShot』は、主人公の「ニコ」が突然見知らぬ世界で目覚めるところからはじまります。プレイヤーはニコを導き、元の世界に返してあげなければなりません。そして、プレイヤーはゲーム内で「神様」と呼ばれています。
舞台となる世界は、太陽が消えてしまっており、暗闇に閉ざされています。このままでは破滅を迎えてしまいますが、幸いにも預言者ロボットによれば救いがあるといいます。なんと、ニコが地下室で見つけた電球がこの世界にとっての太陽らしいのです。これを遠くに見える塔に持っていくのが、ゲームの当面の目標になります。

つまり、このゲームの基本にあるのは「暗闇に閉ざされた世界で新たな太陽を運ぶニコ、それを導く神様」という構図です。

(注)バックストーリーや細かな操作感などについては、こちらの記事が参考になるかと思います。

 

【『OneShot』における選択の重み】
このゲームの特徴は「プレイヤーも登場人物である」ということに尽きます。

プレイヤーの選択によって世界は、あるいはニコは不幸な目に合ってしまうかもしれません。それはつまり、あなたの決断がゲーム世界を不可逆的な事態へと進ませてしまうということです。
「一度きり」という意味のタイトルを持つ『OneShot』はオートセーブ式の作品であり、そのため、ゲームが不可逆的に進行していく仕組みになっています。プレイヤーの選択に意味を持たせるようにデザインされているのです。

前回の記事で紹介した、正解に辿りつくまで何度もやり直せる『Will』とは、まったく逆の仕組みだと思います。
そもそも、現実の世界では選択した行動はやり直せない一方、「セーブ」と「ロード」という便利な機能があるゲームの世界では、不都合なことが起こった際は「セーブ」した時点から選択をやり直すことができます。
そのとき、先ほどまでのプレイ内容はゲーム世界にとって「なかったこと」になります。

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しかし『OneShot』では、「セーブ」「ロード」といった機能は原則禁止されています。恐らくはプレイヤーとゲーム世界を繋ぐためでしょう。
それゆえに、ひとつひとつの選択がプレイヤーにとって重い意味を持つことになるのです。

 

【『OneShot』のメタフィクション性】
『OneShot』のように、ゲームという画面内に限定された枠組みを超えて、現実のプレイヤーに直接的に働きかけてくるような構図や属性を持ったゲームはしばしば「メタフィクションゲーム」と呼ばれます。
最近のゲームでは、そのようなメタフィクション性は、プレイヤーの無責任さを咎めるようなネガティブな方向で用いられている場合がすこし多いかもしれません(これは込み入った話になってしまうため、こちらでは割愛させていただきますが、より詳しく知りたいかたは、複数タイトルのネタバレを含みますが、こちらの記事が参考になるかと思います)。

しかし『OneShot』にかぎって言えば、メタフィクション性はどちらかといえばポジティブな方向で用いられており、たとえば
「そもそも、なぜあなたのPCが別世界と繋がっているのか?」
「ニコが飛ばされた世界では一体なにが起こっているのか?」
「あなたはニコに対してなにをしてあげられるのか?」
といったような事が、物語を進めるうちに明らかになっていきます。

また、『OneShot』のメタフィクション性は「ニコや、冒険の先々で関わることになるキャラクター達にリアリティを与え、プレイヤーに自身の選択の重みを理解してもらうようにすること」「PCゲームだからこそ可能なギミックが多数用意されていること」の二点によって特徴的なものとなっています。
もしご興味を持たれた場合は、ぜひニコと共に世界を歩き回ってみてください。
「神様」として課せられた選択にはつねに重い意味がつきまとうことになりますが、だからこそ、『OneShot』は忘れることのできない思い出のゲームになりうるはずです。

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それと、ニコはとても純粋でかわいいです。
愛らしいキャラクターと世界を回り、ときおり会話を交わすのもこのゲームの醍醐味なので、ぜひ仲良くしてください。

 

次回は、ゲームの「選択肢」について、すこし掘り下げてみたいと思います。
それでは。

第二十七回文学フリマ東京出店のおしらせ

文=榊原けい

 

気付けば気温もすっかり寒くなり、私の下宿の薄い壁からはひりつく冷気と灯油売りの物悲しい音楽が入り込んでくる、そんな季節になりました。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。


さて、今回は同人誌頒布に関するお知らせです。

この度、われわれ抒情歌は11月25日(日)に東京流通センター第二展示場にて開催される「文学フリマ東京」に出展することとなりました。

文学フリマとは、全国各地で開催されている文学系作品の展示即売会であり、出版社の方や同人サークルの方々が出展し本の販売を行うイベントです。
参加者層は十代から九十代までと幅広く、会場では商業誌・同人誌のほか、しおりやブックカバー、写真といったグッズの販売も行われております。


今回抒情歌は新刊となる『GRATIA vol.4』(700円)に加え、既刊の『GRATIA vol.2』、『GRATIA vol.3』(各500円)の販売を行います。

 

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新刊の『GRATIA vol.4』は、「文学と愚者」をテーマにした特集のもと、四篇の評論作品が掲載されているほか、エッセイ、脚本、小説といった個人原稿を掲載した豪華な本となっております。
抒情歌メンバーの三名に加え三名の方から原稿の寄稿をいただき、ボリュームアップしました。
是非ブース(2F キ - 06 「抒情歌」)へと足を運んでくだされば幸いです。


新刊に関するより詳しい情報は抒情歌のTwitterアカウントをご参照ください。
それでは、当日の会場でお待ちしております。

 

 

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第二十七回文学フリマ東京 (2018/11/25) | 文学フリマ

 

 

アニメソング - 岡崎律子『For フルーツバスケット』『小さな祈り』

文=竹宮猿麿

 

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 アニメ版『フルーツバスケット』(2001年)の再放送をはじめて観たのは小学五年生の頃で、そのときにオープニングテーマとエンディングテーマを歌っていたのが今は亡き岡崎律子さんだった。

フルーツバスケット』に関しては、登場人物の多くが暗い過去や人格的な難点を抱えていたり、その背景には個人ではどうしようもない一族の呪いや家庭問題があったり、そもそも一族の呪いが「異性に抱きつく(もしくは抱きつかれる)と十二支のうちの特定の動物に変身してしまう」というなぜか闇の深い設定だったりと、温かみのあるタッチで描かれている割にはやけに終末的な雰囲気を感じさせるアニメだったという印象が強い。

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しかし最近になってふと、そんな印象のおおもとには、オープニングとエンディングに流れていた岡崎さんの、か細く、柔らかい、ささやくような歌声があることに気づいた。子供だった当時の筆者は彼女の曲に「なにかの終わり」を感じ取り、アニメを観終わるたびに後で正体不明の悲しさに襲われては訳も分からずに泣いていたものだったが、そうした神秘的な感覚も今はもう大半が失われてしまっていて、そのことを特に気にも留めなくなってすらいる。

原則として、失われたものを取り返せることはほとんどない。 実際に私達は岡崎さんを2004年に失ってから14年の歳月を経てもなお、彼女の歌声を黄泉の国から奪還できずにいる。もちろん、彼女の既存の音声からサンプリングすることを通して彼女をボーカロイドとしてこの世に復活させることはまったく不可能ではない。しかし、大半の人々はそうしたかたちでの復活はあまり歓迎しないのではないだろうか。

というのも、私達は彼女の取り返せない生を惜しんだうえで、その生の一部である歌声を惜しむからだ。 それぞれの存在は唯一であるからこそ、そのうちにおいて無限の広がりを持つのであり、その喪失はひとつの世界の消滅に他ならない。私達が失ったのは彼女の身体ではなく、岡崎律子と呼ばれた世界なのだと思う。

失われた世界は宇宙の外側を永遠にさまよう。どのような最新テクノロジーや思い込みも、そのような世界を途方もない孤独から救えないし、死に対する私達の先天的な無力感を癒やせない。ただ耐えることのみがゆるされており、その作業は古来から弔いと呼び習わされてきた。彼女の忘れがたみを聴くたび、会ったこともない彼女の存在を思い出し、心のどこかで彼女の不在を悼むことになる。そして彼女の歌声にかえって慰められながら、昔あった神秘的な感覚をわずかに知覚する。

 

そう、彼女の曲にはどこか死を予感させるところがある。

当時の筆者がそこから察知したのは、今から思えば「存在にも終わりがあるということ」の深刻さだったのではないか。このことは思いつきとして片付けられるほど案外無根拠ではない。というのも、彼女の歌詞には「生きているということ」やそのなかでの努力がよく歌われているからである。

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たとえば『For フルーツバスケット』は「心ごとすべてなげだせたなら/ここに生きてる意味が分かるよ/生まれおちた歓びを知る」と、『小さな祈り』は「たのしい夕げ さあ囲みましょう/今日の涙は ほら 明日の力にして」と歌っている。

一見するとやさしい気持ちを述べた「ありがちな」、つまりは社会に流通している定型文を使っているようではあるが、そのなかで深刻な認識をひそかに示しているところに岡崎さんの作詞の魅力がある。彼女の歌詞は生に対する強い肯定を表明する一方、現実のままならなさや生きていくことの難しさをニュアンスとしてつねに含んでいる。

ところで、そのような明るいメッセージと奥にある暗いニュアンスはすべて、無限であるはずの私達を矮小化する全事象の有限性を暗に指し示している。

彼女の歌詞においては、生を歓ぶこと、より細かく言えば他者に対する強い愛情や恋心、そして心に左右されることなく生きていくしなやかさがが全体いっぱいに湛えられており、ときには直接的に讃えられているが、それらは、存在の脆さ、他者の失われやすさや他者との距離感、心の克服しがたさに対する認識なしには出現しえない。

存在の有限性を志向する認識は、究極的には死をまなざしている。彼女自身がそのことを意識していたかどうかはともかく、歌詞上に浮かびあがる彼女の意味体系は、死の方向に対して振る舞っている。

 

ガンに侵された岡崎さんは晩年、病室にもキーボードを持ち込み、なにかに憑かれたかのように作曲していたというエピソードがある。あるとき、彼女の母親がそれを見かねたことがあったが、そのとき彼女は母親に対して「いいものを残しておきたいから頑張る」と言ったという。

先程の筆者の見解と岡崎さん御本人のエピソードをもし交差させるなら、「いいもの」ないし良い作品というのは、死自体に対しては無力であるものの、意味を構成してくれると言える。そして意味は人間を死の無意味さ(別の言い方をすれば、現実の根本的な不条理)から保護してくれる。

その点から言えば、意味とは保護膜であり、それを構成しようとする努力は死への抵抗ということになるのかもしれない。つまり、あたかも文明ないし都市が自然から城壁でみずからを守ると同時に区別するように、生もまた意味によってみずからを守ると同時に死から独立させるのである。

もし深刻な認識が、意味の外側には死に代表される無意味が広がっていることを知りながらも、生きているかぎりは意味を全力で構成していくしかないことを認識する認識なのだとしたら、彼女の他者に対する愛情は、そうした苛烈な認識をあらわにすることなく、むしろ少女漫画的な雰囲気でやさしく包み、誰でも心地よく聴ける安全な音楽として提供するところにあったのだと思う。

 

今更ではあるものの、とりあえず岡崎さんのプロフィールをざっと紹介しておきたい。

彼女は1959年12月29日に「軍艦島」の名で知られる長崎県端島で生まれ、高校時代にはバンド活動を行っていた。1985年からはCMや他のアーティストに曲を提供するようになる。そして『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1991年)や『ラブひな』(2000年)等に曲を提供するなどアニメ界隈でキャリアを着実に積み上げていったが、日向めぐみmeg rock)さんと2002年にメロキュアを結成してこれからという時期にスキルス性胃癌が発覚し、2004年5月5日に44歳で死去した。

以上はWikipediaの記事の要約だが、ネット上の他の記事でも大抵はこの程度までのことしか書かれていない。これが私達が彼女について知りえるおおよその限界なのである。

彼女がインタビューに答えることはもうありえないし、誰かが彼女との思い出を公で語るシチュエーションがこれから後にあるとも思えない。つまり、彼女のことをより詳しく知る機会はもうない。これが死んでいるということ、さらに言えば情報化社会において死んでいるということなのだろうか。彼女のサイトも当時から更新を停止したままで、今日では古めかしくなったデザインがどこか物悲しさを感じさせる。

もし死の彼方にあの世が本当にあるとすれば、だが、ひとりのファンとして彼女の冥福を、できれば『小さな祈り』に倣い、彼女の彼岸での一日一日の終わりが素敵なものであることを祈りたい。

技術同人誌 - 技術書典5と純肉本

文=秋津燈太郎

 

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近況ですが、10/8(月)に池袋サンシャインの文化会館で開催された技術書の即売会、「技術書典5」に行ってきました。

技術書とは(基本的に)IT技術に関する情報を掲載している書籍でありまして、プログラミング言語の入門書からニッチな分野の技術を詳説したものまで、多くのサークルから様々な技術書が販売されています。

2016年にはじめて催されて今年で3年目になりますが、サークル数、来場者数ともに順調に伸び続けているようです。今回はいつにもまして熱気がすごく、入場待機列は建物の外まで伸びる有様で、開始からだいぶ経った13:00過ぎに到着した私でさえ10分ほど待たなくてはなりませんでした。

www3.nhk.or.jp

私は、セキュリティを意識したWebアプリのテスト技法、発表されてから日の浅いプログラミング言語Juliaの入門書、ハッカーに焦点を当てた米国ドラマ『MR.ROBOT』に出てくるプログラムの解説本などなどの本を購入しました。そのなかでもとりわけ興味を惹かれ、なおかつIT技術に馴染みのない方にもわりと関係しそうな「純肉本」という同人誌を本日は紹介させて頂きます。

 

そもそも純肉とは?

純肉とは、動物の幹細胞を培養して造られた肉の別称です。

糞便汚染や水資源の大量消費といった環境問題を解決し、ことによれば食中毒すら改善させうるとして注目を集めています。200を超える世界の企業が研究を行なっており、牛はもちろん、鳥や魚でも実験が進んでいるとのこと。

アメリカではクリーンミートと呼ばれている培養肉ですが、日本ではどうして純肉なのでしょう?それは、純粋培養肉の研究および作成を目的とした有志のコミュニティShojinmeat Projectが、カタカナ語をこれ以上増やしたくないという思いから、あえて「純肉」という呼び名を作ったからです。察しの良い読者はお気づきでしょうが、まさしくShojinmeat Projectこそ「純肉本」の発行元に他なりません。(Shojinmeat Projectの概要については次章で説明いたします)

wedge.ismedia.jp

欧米を中心に世界各国で注目を集めているその純肉ですが、ビル・ゲイツをはじめとする多くの著名人が開発に巨額を投じています。先述のとおり環境問題や食糧難を解決する可能性を秘めているからでしょうが、分野としてはまだまだ発展途上で、生産量は少なく、それゆえに一般大衆が気軽に買える値段ではありません。それでもなお、2013年時点では3400万円だった純肉のハンバーガーの値段が今後は1200円ほどになると予測されているので、我々が純肉を気軽に味わえる日が来るのもそう遠くないのかもしれません。私も早く食べてみたい。

 

Shojinmeat Projectとは?

2018/10/17現在、公式サイトがサーバー移管のため停止しているようなので、CAMPFIREに掲載している概要から簡単に引用します。詳細を知りたい方は下記のページをご覧ください。

camp-fire.jp

"Shojinmeat Project"は、2014年に研究者、バイオハッカー、学生、イラストレーターらが集まり、動物を殺さずにタンクの中で筋肉細胞を育てて作る食肉、「純肉(培養肉)」の実用化を目指すために結成された組織です。当初はメンバーの実家のお風呂場で実験したり、メンバーがバイオスペースとして供用していた個人宅を借りて培養液を試作していました。

 世界中にメンバーが点在しており、東京近郊に住んでいるメンバは週に1回の頻度で実験手法・結果などの情報を交換しているようです。

 

fabcross.jp

 

純肉本

さて、ようやく本題の純肉本です。純肉本とはShojinmeat Projectが年2回発刊している機関誌で、純肉の開発進捗や代替食料の現状についてのレポートが主に掲載されているようですね。

今回私が購入した純肉本は2018年の夏号でして、純肉をとりまく環境や、宇宙での人口肉培養についての考察、純肉料理に合うワインの選定シミュレーション、自宅での純肉作成方法をまとめた漫画などが収録されています。門外漢の私にとってはどの記事も新鮮で読み応えがありましたが、とりわけ考えさせられたのは「純肉の「おいしさ」の重要性」という記事でした。

何にせよ、人間の手を加えた養殖物・人工物よりも、天然物・素材の良さを活かしたものを我々は好みがちですし、その嗜好が人工物へのバイアスを生んでもいます。やせ細った天然の鰻と、立派に肥えた養殖の鰻の写真を知人に見せてどちらが天然だと思うかと尋ねてみたら、ガリガリの天然物なんてありえないから後者だと豪語されたこともあります。天然物、人工物に対するバイアスの存在をしめす好例でしょう。(人口食料の極みであるカロリーメイトで不満なく1ヶ月暮らせる私も、鰻の味に関しては天然の方が好きですけど笑)

当記事の筆者の松吉・間島さんは、おいしさは食物的要因や人的要因により判断されると踏まえたうえで、さきほど私が例示したような心理的な要因も「おいしさ」に影響を与えると述べています。

 

純肉のおいしさも人的要因と食物的要因から決まるとすると、従来の肉(家畜由来)に比べ、純肉は人的要因によって悪影響を受けることが予想される。人間には「新規恐怖」という、今まで食経験がないものを食べることを躊躇する行動が本能的に具わっている。

……

また、純肉が人工的に作られたものと強く認識されることも、純肉のおいしさにとっては悪影響かもしれない。真実は別として、「天然ものだからおいしい、養殖は天然よりも尖ったもの」という個室した考えを持つ人は一定数存在する。純肉の話に置き換えると、従来の家畜肉は天然・純肉は養殖、のように認識されてしまう未来も容易に存在できる。

 

 

新規恐怖に対して松吉・間島さんは社会に浸透すれば解決するらしく、では、そのためにどのような努力ができるかというと、純肉の食事前後に「おいしさ」を提供することだと述べています。つまり、純肉の優れた形状、色調、光沢により引き起こす「食物新規性嗜好」で食前の新規恐怖は打ち消して、さらに実際に舌で感じる味もぬかりなく上等にすれば良いというわけです。

そして、純肉にはそれを可能にするポテンシャルを秘めているとも言います。

もし将来的に細胞レベルで純肉が設計できるようになれば、様々なニーズに応える純肉を培養できるようになるだろうし、個人でもそれが可能であれば、そのひとの好みに合わせた純肉も作成できるだろうということです。

 

 

おわりに

いかがでしたでしょうか。培養肉について不勉強なこともあり、至らない点も多々あったと思いますが、純肉の魅力や熱さが少しでも伝わったのならそれに勝る喜びはございません。

まだまだ発展途上の純肉開発ですが、自分だけの最高の純肉を追い求める個人培養者だったり、好きなひとの肉を培養して食す変態も将来的に現れるのかもしれませんね。たのしみです。