抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

日本語ヒップホップ - 不可思議/wonderboy

文=寝惚なまこ

 

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 滾々と湧き出る無力感の源泉は交わりのある人々の眼差しではなく鏡越しの充血した両眼にこそあると気付いたのは数年前のこと。文芸創作にうつつを抜かし、履修した講義を悉くサボって喫茶店に籠りラップトップと睨み合う日々を過ごしていた大学三年生の頃、週に二日のアルバイト以外には束縛する何物も無く、お天道様に背を向け落日と共に布団から這い出る私は、日陰者の名をほしいままにする青白い青年だった。昼夜逆転してはいても肉体は陽光の残り香を忘れられず、日の出を待って床に就くころには視神経が引き絞られるような疼痛が頭を離れない。日々を繰る手の早まるのに反して内的な時間は麺棒で伸ばしたように起伏に乏しく、嵩を増してゆく無力感の累積だけが月日の移ろいを映じていた。当時、耐えがたいカーテン越しの薄明のなかiPhoneでひたすら流し続けたのが不可思議/wonderboy というラッパーのアルバムだ。

 

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儚く揺れる命の泉で沈みながら息を吸いぎりぎりで気づいた 

死ぬために生きているわけないじゃん 死後の世界には興味がない 

それでも毎朝消え入るほどにつらいのは一体いつ以来だろう 

静かに告白しづらい悩みをネットじゃなくて暗闇に問うた 

途端に吸い込まれていく言葉の虚しさよ ああなんと無力 

進んだと思ったのに戻っている双六 先を見る目はいまだ鋭く

——「火の鳥

 

 不可思議/wonderboy は一般にはポエトリーラッパーと呼ばれている。近頃勢いづいているラップブームの到来する少し前、2009年~2011年の間ラッパーとして活動していた彼の楽曲は、聞き心地や発声及び発音のカッコよさよりもストーリーテリングの効果を重視した半ば語りのような歌い方が特徴だ。素人目にはリリックに表れているイメージの構成力とライム(韻)の配置に研鑽のあとが窺える。また感情の振幅と発声の起伏を同調させる歌唱法はライムを強調するというよりは歌詞のメッセージに耳を傾けさせるためのものらしく、受容者のリアクションも「普通の人間の苦悩」を歌い上げる彼への共感を示すものが多い。交通事故のために24歳で夭折した彼の人生に物語性を見出す人々も決して少なくなく、ままならない人の世に対するささやかな抵抗の象徴として流通している側面もあるようだ。

 

 運命に翻弄される普通の人々の多くがそうであるように、その苦悩の代弁者たる不可思議/wonderboyもまた強靭な精神を備えていたとは言いにくい。Hip-Hopシーンの天辺を目指して詞を書き続け、人並み外れて巧いわけでもないラップという表現に魅入られてしまった彼には一般的な夢追い人としての苦悩がある。内的騒擾に追い詰められた人が攻撃的になってしまうというのは度々起こりうることのように思われるけれど、その点、不可思議/wonderboyは直截な苦悩の表現やユーモラスな節回しの中でその過謬に陥ることはない。無暗に攻撃的なリリックを書いたりもするけれど、それも心からの述懐というよりはユーモアの範囲内にとどまっている。弱さを外部に転嫁することなくあくまで自嘲的なスタンスで夢と無力とに向き合い続ける気力の源泉は、絶望の深さにこそあったのではないかと私は思う。他人への攻撃が主観的世界における力関係の転覆を狙った心理的な補償作用だとして、そのような誤魔化しが付け入る隙も無いほど透徹した絶望感に覆い包まれている人間にとっては、自身を崩壊させより良い形に再構築する恒久的な苦役を踏破せずに安寧は望むべくもない。攻撃による気晴らしも、あらゆる虚飾も用をなさない。底なしの無力感があったからこそ不可思議/wonderboy はラップやポエトリーリーディングに向き合い続けることを余儀なくされているように見える。

 

 また彼の絶望感は言葉という表現体系の制約にも根があるのだろう。言葉そのものを祝福する歌曲「もしもこの世に言葉が無ければ」の歌詞には「ですから僕はこうしてここで / 言葉などという拙いツールで / つまり塩素まみれの汚いプールで溺れてみせましょう」とあり、言葉とそれが持つ限界との板挟みの中に自身の仕事を見出している。

 

 彼の生涯を貫いた無力感は複数の楽曲において見出される詩情の一要素だろう。これは作詞や歌唱の動力であると同時にもっとも深刻な痛点に他ならないのだろうけれど、この無力感が一つの閾値を越えたとき、表現は自身を研磨しつづける強硬さから一転して神前に懇願するような明け透けなものになる。「風よ吹け」がその分かりやすい例だ。

 

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二十三歳で未だに実家 当然湧かない生活の実感

踏み出せない弱さは飛べない鳥 囲まれる透明の見えない檻

止まらない咳 不安と焦り 何もできずまた床に臥せり

リリックは書けどもトラックは無し 今ここに見る売れないラッパーの限界

——「風よ吹け」

 

 現実的な描写とイメージとの交差によって展開されるリリックには袋小路に陥ったような抜き差しならない焦燥の披瀝がある。生活に疲弊する彼に打開策は無い。技巧を凝らしたリリックも、それを評価するトラックメイカー無しには楽曲として日の目を見ることはないのだから。肉体、精神、社会生活と多面的な責め苦に耐えるうちに累積した無力感は、どん詰まりにいる彼に祈らせる。それはライムとストーリーテリング、そして生活に宿る詩情を、あくまで作詞の技巧によって一つのラップに落とし込むという彼が背負った思想の、現実に対する屈従の証のように映る。干ばつに喘ぐ農耕民族が雨乞いをするように、不可思議/wonderboy は自らの無力を認めることで、技巧によって築き上げた自らの領分を明け渡すことで、音源製作と生活とに新しい展開を呼び寄せようとしたのかもしれない。

 

風よ吹け 風よ吹け 風よ 黙する都会に船を出せ 

夜更けは近いがそれも構わない 暗闇よ俺を連れていけ

風よ吹け 風よ吹け 風よ 高ぶる感情の帆を拡げ

地図無き人生の航海の舵を取りながら後にする港

——「風よ吹け」

 

 技巧的なリリックから垣間見える研鑽の姿勢に相反するような受動性がここでは開陳されている。腕頼みから神頼みへ。自らの美意識に照らし合わせ、より良い作品を独り作り続ける営みには挫折の感覚が付き纏い、心身をひどくすり減らす。叶わぬ夢を放逐したり、無力を忘却し開き直ったり、自ら儚くなったりと、屈従の帰結するさきは様々だが、それが彼の場合は祈祷だった。無力な人間に要請される努力が一種の自己否定だとして、後天的に獲得された努力がまたもや見捨てられたとき、二重の自己否定を経て祈祷という新たな営為が萌芽するのだろう。合目的的な変化を進歩と呼ぶのであれば不可思議/wonderboyのこの展開も進歩に他ならないはずだ。しかし同時に、いかな進歩によっても転覆しえないというのが絶望の絶望たるゆえんである。努力を重ねても祈りの境地に至っても払拭しえない無力感には絶望の真正さ、透徹性が垣間見える。ところがその真正さに反して、幸福を感じさせる楽曲も彼はいくつか制作している。

 

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未知との遭遇」「雨降りの金曜」「銀河鉄道の夜」などの作品において、彼の声は安寧のうちにあるような妙な甘やかさを帯び、リリックにもささやかな幸福の表現が見られる。しかし私はそれを素直に喜べない。彼は何も成就してはいない。にも拘らず視界のすべてを覆っていた絶望感が部分的にでも払拭されていく様は、理想と現実の二項対立の消失という一つの敗北の兆しのように見えるからだ。

 

 私たちはそれぞれ大なり小なり理想と呼ぶべき世界の範型を心のうちに持っていて、現実との偏差をよすがにより良い世界を在らしめようと奮闘する。その偏差、現実との隔たりこそが絶望感の端緒を成すものであり、だから絶望感の自然消滅は同時に抵抗の手立ての喪失をも意味する。彼が背負い、諸共に倒れた理想は世界から徐々に締め出されていく。そして私たちは失われた理想に共鳴することはできても、同じ理想を掲げて同じ現実に打ちひしがれることはできない。不可思議/wonderboyの詰め込みすぎて彼自身も正確に読み上げられないリリックや、頭韻や踏み外しを多用しながら様々な難度で構成された押韻や、壮大な世界観と日常的な艱難辛苦を交差させるストーリーテリングや、音源のどこか上っ面めいた声音や、打って変わって真に迫るライブパフォーマンスや、絶望感と幸福感の焦点のギャップから彼の理想を推し量ることはできても、それ以上ではない。だからこそ世界の在り様に疑義を呈する人々には責任が問われるのだろうと思う。個々人を媒介してしか在らしめられない理想を把持しつづける、そのために正しく絶望する責任だ。

【連載:ゲームと選択肢】第三回 『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』

文=一条めぐる(@ichijo_meguru)(同人サークル「あるふぁちっく」主宰)

 

こんにちは、一条めぐるです。

前々回の『WILL』の記事、前回の『OneShot』の記事の両方でたびたび言及してきたように、私は「選択」というテーマにこだわってきました。今回もその観点を引き継ぎつつ、去る2017年3月16日に発売された『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』のリメイク版について紹介したいと思います。

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この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』は1996年12月26日に発売されたアドベンチャーゲームです。WindowsがOSの主流になる前の時期、つまりは国産PCが世界に名を馳せていた時期の作品で、PC-98用アダルトゲームとして発売されました。

詳細はWikipediaに譲るとしますが(ネタバレだらけですが一番詳しく書いてあります)、ざっくり言えば「並行世界をめぐりながら真相に辿り着く」ことを目指すゲームです。この作品は二部構成で、第二部では並行世界を移動できません。まっすぐにシナリオが展開されていきます。なので、今回私が取り上げるのは主に第一部「現代編」のみとなります。

 

第一部の概要は、以下の画像を参照してください。

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【ゲームにおける選択肢とプレイヤー】 

「選択肢を選ぶ」とは「主人公が取るべき行動を、プレイヤーが選択する」ということです。

アドベンチャーゲームではどの選択肢を選ぶかでストーリーが分岐していきますし、美少女ゲームではどの選択肢を選ぶかで主人公が誰と結ばれるのかが決定されていきます。

ところでこの選択、ゲーム内では主人公が行っていることになっているため、プレイヤーが選んだ選択肢の責任はゲーム内では主人公が背負うことになります。

そのため、通常のゲームでは、こちらは選択肢を選ぶ主体であるにもかかわらず、ゲームの世界からすればどこまでいっても無関係な「よそもの」であると感じざるをえません。

 

 

【選択肢の観点から見る『YU-NO』の魅力】

しかし、『YU-NO』ではそうした疎外感を味わわずにすみます。 

YU-NO』のシステムでは、アイテムの宝玉をフローチャート上に置くと「宝玉セーブ」ができ、フローチャート上に置かれた宝玉を選択すると「宝玉セーブ」を行ったときの時間と場所まで戻ることができます。そのため、どうも重要らしい選択肢があらわれたとき、プレイヤーはおのずと「宝玉セーブ」をすることになります。

そのようなシステムであることから、フローチャート上にはプレイヤーが選択肢を選んで進んできた道のりが刻まれていくことになります。

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ところで『YU-NO』の主人公はとある事情から「並行世界を移動できる」という能力を持っているのですが、ここが『YU-NO』の面白いところで、主人公もまたフローチャートの存在を認識しています。 

とある女性キャラクターのストーリーを進めていくといずれそのキャラクターが死ぬのですが、彼女の死は『YU-NO』においては覆せない現実ではないため、主人公は「彼女が生きている」世界を見つけようとします。

つまり、主人公は彼女の死に絶望したあと、その人の死を回避するためにかつて「宝玉セーブ」をしたところまで戻り、選択をやり直そうとするわけですが、これはプレイヤーが行う「セーブ&ロード」と構図がほとんど変わりません。主人公は私たちプレイヤーと同じ行動をしているのです。 

そのように、フローチャートを前に主人公と自分の認識が重なるところに『YU-NO』の魅力があると思います。

 

 

【『YU-NO』はあなただけのゲーム体験を創出する】

YU-NO』は人によって攻略順(ゴールに到達するための順序)に違いが出るゲームです。

もちろん、攻略順に違いが出るアドベンチャーゲームは他にもたくさんあります。

しかし、『YU-NO』の場合は攻略順によって、それぞれの問題の解決方法に気付くタイミングが異なってきます。進めていたルートで、思いがけず別ルートの解決方法が見つかることも珍しくありません。その解決方法を試すタイミングも、当然、人によって異なります。 

そのように、プレイヤーの選択がゲーム内の展開を大きく左右するという点では、『YU-NO』はプレイヤーに自分だけのゲーム体験を与えてくれるゲームだと思います。 

 

 

【終わりに】

YU-NO』は、アドベンチャーゲームの一つの完成形だと思います。システムと物語を上手く結びつけ、プレイヤーと主人公の認識をリンクさせた上で、こちら側にあらためて多彩な選択肢を自覚させ、試行錯誤と決断を促してくれるからです。

自分が選んだ選択肢の責任を取りたいと思っている私にとって、主人公に対する没入感を高め、選択結果を真剣に反映してくれる『YU-NO』のシステムはとても魅力的でした。

あと、並行世界を行き来して行き詰まりを打破するカタルシスが面白かったです。そうした感覚はほかのタイトルでは中々味わえません。古いゲームだということを忘れて「いわゆるメタフィクションゲームでなくてもプレイヤーをゲームに巻き込めるんだな」と感心しました。 

 

ところで、今まで紹介してきた作品は、ゲーム内で示された選択肢を選ぶ、もしくは組み合わせるというかたちで進行するものばかりでした。

しかし、ゲーム内の選択肢を無視するということはできないのでしょうか? もしゲームが求めてくる選択と、プレイヤーの取りたい行動が一致していなかったら?

 

次回は、こういった問題に踏み込んだ作品を紹介したいと思います。

それでは。

美意識のセクト・百合文化

文=寝惚なまこ

 

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 筋張ってツンとひるがえった白い花被、その中心部から伸びるしたたかな花柱と先端で昏く貪欲な威光を放つ花頭の雌蕊。種々あるユリ科の花々のメルクマールとも言うべき身の締まるような気位の高さと手招きするようなおどろおどろしい憎悪をのぞかせるアンバランスな美しさは、花弁の清らな明るさの白百合を眺めるときにより一層つまびらかに理解できる。根を同じくしながらも情趣のそれぞれ異なるために好対照をなす花被と雌蕊の関係性を自然界から救い上げ人界に移植する不遜が許されるのなら、互いに個として屹立しながら融和的な交際を展開してゆく女性同士の恋愛を描いたいわゆるガールズラブが百合の花の名で称されることにも、男性同士の恋愛の謂いである薔薇との対比以上の意味が見出されないだろうか。語源は諸説あるにせよ調和と反撥の止揚を経路にして一つの美意識を露わにする百合というジャンルに魅入られた私が数年前、大学受験のため単身降り立った東京で逢着したのが当時の百合界隈でカルト的な人気を博していた玄鉄絢の漫画作品『少女セクト』だった。

少女セクト』は2003年から二年間に亘って漫画雑誌『コミックメガストア』上で発表された作品であり、壮美かつ可愛らしい少女たちの描画や軽妙な台詞回しが特徴とされる。女子校と学生寮を舞台にして進行するこの物語は各話ごとに焦点の当たるカップルが変わる群像劇の形式を取りながら、学生寮に形成したハーレムの主で素行不良の常習犯である潘田思信と、彼女に目くじらを立てながら自らもモテ気質な風紀委員の内藤桃子という主人公二人の関係を描いてゆく。

 物語は桃子が同寮住まいの少女、紅緒と賭けをする場面から始まる。互いの載せたチップは「中華街の小籠包食い放題」「ケンタのチキン キールだけ五十ピース」で勝負の内容は「紅緒の友人・菖蒲の唇を奪う」こと。権謀術数をめぐらし善戦するも敗れた桃子は最終的にカップルとなった紅緒と菖蒲のキスシーンを見せつけられ第一話は幕を閉じる。それぞれの話は独立したものとして楽しめるラブコメディ風味になっているが、物語が進むにつれてますますハーレムは拡充の一途を辿り、女性教員と「お付き合い」を始める桃子と、彼女に「十二年越しの片思い」を続けながら寮生といちゃこら三昧の思信の関係性はコミカルな表現とは裏腹に複雑怪奇で無軌道にも思える情動の悲劇的な側面を露わにしていく。

概観からは際立った特徴も表れづらいこのシリーズの単行本は今も手許にあり、一巻の帯には「乙女の愛情争奪戦‼ 女の子らしさ全開であの娘のハートを狙いうち♡」と銘打たれているのを見るとなにやら少女同士のゆるふわな関係性を主題にしたポップな作品にも思えるし、だから初めて手に取ったときも正直な所あまり期待は寄せていなかったのだが、邂逅から数年たった今もなお度々読み返しては感慨にふけるよう強いる『少女セクト』の魅力はあらすじからは浮き彫りにしづらい作品の雰囲気のようなもの、一言で表せば美意識にある。

 絵柄は個々の漫画作品を唯一無二たらしめる要素のひとつだけれど、玄鉄絢の描く少女もまた特徴的だ。全体的に繊細な描線で、お餅のように柔らかな人物の輪郭、太陽黒点のように底知れない力強さを覗かせる瞳、一話ごとに変わる制服(!)の複雑さはさることながら、特に髪型の描写の細かさと再現性は鬼気迫るものがあり、嗜好の関数ではなく個人性の複写として形姿を深刻に捉える描画には人間存在に向き合い削り合うよう作者を駆動させる衝迫が見え隠れする。髪は女の命とはよく言ったもの。

また台詞回しにも面白味があり、本筋と一見無関係で諧謔に富む長台詞の応酬は人物のバックグラウンドを浮かび上がらせたり繊細な心情の覗き穴になったりと、人物の発する言葉は物語進行の立役者であるばかりではなく、作品世界そのものを明らかにする試錐の穿孔でもある。そこから見えるのは現実世界にも顕れるままならなさと、それに対峙することで世界の理想的な姿を照射する美意識。玄鉄絢という根を共有する二つの秩序は重なり合うことで互いの輪郭を明瞭にしていく。『少女セクト』は気の触れたような美意識のサンプルとして私を魅了しつづける。

 管見の範囲内ではあるが、多く物語作品はそれが展開するための力として論理を必要としている。それは人間関係上に生起する感情だったり、個人性を喪失させる集団心理だったり、一切の人々に宿命づけられた死であったり、万有引力などの自然法則だったり、様態はさまざまの因果律によって物語は一つの筋を辿ることができる。この論理は骨格であると同時に眼目でもあり、文学作品の批評文を紐解けば顕著なように、いわゆる現実世界の因果律をどれだけ正確に解きほぐしているかによって物語の価値が左右される場合も少なくない。これに背くように現実の論理よりも美意識による世界構築を選び取る猛者が多いのも、『少女セクト』を始めとした百合というジャンルの魅力の一つに挙げられるだろう。微に入り細に入り美意識がそのまま表現と結びつく漫画や小説などの媒体において、物語をも美意識によって支配することはとりもなおさず作品を徹頭徹尾みずからの美意識で統御することを意味する。審美眼のない割に細部にこだわりすぎる悪癖のある私のような人間でも、ぱっと見でビビッとくる作品を手に取れば大方アタリを引けるという甘美な花園の百合畑である。

 この美意識に依って立つ物語という百合ジャンルの特性は、百合という語の使われる以前、少女小説の大家である吉屋信子の短編集『花物語』にすでに認められる。流れるような調べを持つ音楽的な文体、人格の高貴さと形姿の優美さとを重ね合わせる筆致は源氏物語など古典文学への回帰を見せており、耽美に偏重する向きもあるがこれじたい美意識の明確な発露に思われる。全編に亘って美感に訴えようとする『花物語』のなかでも「ダーリヤ」に描かれた精神性の美しさに私はちょっと参っている。

 きょうだいの多く裕福ではない家に生まれ、女学校を諦め、慈善病院でみすぼらしく汚らしい患者たち相手に働く看護婦である主人公・道子はある晩、同じ小学校を卒業した豪家の令嬢・春恵が救急で手術を受ける場に立ち会った。道子の看病の甲斐もあって回復した春恵、その父からの、道子を自分の家に迎えて春恵と共に相当の教育を受けさせたいという申し出を、しかし道子は断ってしまう。看護婦として働き続けるという自らの使命を悟った道子は、栄華な未来への未練を振り切るようにして、春恵から送られた思い出深いダーリヤの花束を川に投げ捨てたのだった。

 以上が「ダーリヤ」の簡単なあらすじであるが、この短編を読了し終えたとき、歓喜に塗れた呪いがとぐろを巻いている感覚があった。栄転の道を自ら棒に振った道子のことを誰も理解できないからだ。家族も、春恵も、父も、慈善病院の院長も、道子の担当する患者も、そして将来の道子本人でさえも身を投げうつような決心を若さゆえの愚かさだと忌まわしい気分で回顧するだろう。自身が慈善病院に仕えることの誇りをいつか彼女は忘れ、後悔だけの日々が予定されている。そしてそれら全てを織り込み済みで、誰も幸福にならないことを承知の上だったからこそ道子はダーリヤを捨てたのだ。決心の正しさと、避けられない後悔とをはっきりと悟った道子は華やかな未来を象徴する花束を捨てることで自分の将来を決定づけた、換言すれば呪ったのである。

 

 私たちは日々老いてゆくし、倫理観や正義感や美意識を研鑽しつづけても、いつかそれら全てを老醜で拭い去って、若かった頃の確信を若気の至りで片付けて、いそいそと居心地の良い棺桶作りに勤しむ日がやってくる。しかしダーリヤを捨てた道子の身体は精神のありように関わらず看護婦として駆動しつづける。それは自らの可能性を捨てた者の祈りが持つ物質性がゆえ。若き看護婦の殉教は彼女を奉仕者の位置に縛り付ける。そしてそれは他でもない彼女自身が一瞬のうちに果たした決心のためなのだ。

美意識は時として現実のロジック以上に私たちの心臓を鷲掴みにして世界の有り様の是非を問いかける。現実を見ない蛮勇は往々にして盛者必衰の理の下敷きになり夢の跡を留めるに過ぎないけれど、世界としのぎを削る営為を否定する材料には残念ながら十分ではない。

 願わくはこれを読んでくれたあなたの手にも、世界の重さと釣り合うような百合の花束が届きますように。

アニメソング - 大槻ケンヂと絶望少女たち「林檎もぎれビーム!」

文=竹宮猿麿

 

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ゼロ年代最後の年の2009年、筆者はまだ中学生で、社会や文化の雰囲気はどこか薄暗かった。当時の筆者は「将来はサラリーマンになりたい」と漠然と思っていた。サラリーマンは「ふつうの人間」だけが成れる職業だという感覚がなんとなくあったからだった。当時のクラスメイトや塾の友人たちも、サラリーマンになりたいと「しきりに」言っていた記憶があるので、そうした感覚を持っていたのはおそらく筆者だけではなかったのだろう。当時を思い返すと、ゼロ年代後半というのは「ふつうは素晴らしいことだ」という新しい価値観が出現しはじめた時期、そして、自分を「ふつう」以下の人間だと見做すような自己肯定感の低さが中高生のあいだに蔓延していた時期だったという印象がある。

当時の閉塞感は、明らかに中学生に悪影響を及ぼしまくっていた。筆者の記憶が正しければ、ゼロ年代後半は小学生から高校生までが結構頻繁に「死ね」という言葉を口にしていたし、アニメやライトノベルといったオタクカルチャーが本格的に盛り上がっていた影では、メンヘラや引きこもりの存在が若年層にかなり強く意識されつつあった。筆者と仲の良かったクラスメイトもいきなり学校に来なくなってしまった。彼の友人は、最後のほうは筆者しかいなかったはずだ。しかし、筆者にはどうすることもできなかった。クラス内での権力闘争に敗北し、いじめられ、転校していった隣のクラスの女子は筆者が放課後によく一緒にだべっていた友人のひとりだった。彼女はリストカットを繰り返していた。

 

そのように少し荒れ気味だったゼロ年代後半の雰囲気のなかで、連載され、アニメ化されていたのが「絶望先生」こと糸色望を主人公とする漫画『さよなら絶望先生』だった。

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アニメのほうをきちんと見たことがあるわけではないので、漫画のほうの知識だけで語らざるをえないが、『さよなら絶望先生』は、時事ネタやあるあるネタをよく扱う風刺性の強い作品である。そうした性質上、他の漫画よりも情報量が多い。基本的には一話完結型の作品であり、物語らしい物語があるわけではないため、そのあらすじについて詳しく述べる必要は特にないだろう。なのでざっくり言ってしまうと、『さよなら絶望先生』とは、絶望してはすぐ死のうとするコミカルな高校教師が癖の強い生徒たちとわちゃわちゃするという、ただそれだけの話である。

筆者が『さよなら絶望先生』のアニメの存在を知ったのは2009年のことだった。当時それはちょうど第三期を迎えていた。当時の筆者は、たとえばNHK衛星第2テレビジョンで放送された「ザ☆ネットスター!」(2008年4月~2010年2月)で東浩紀とやる夫を初めて知ったぐらいにはサブカルチャーに疎かった。だから、『絶望先生』第三期主題歌の「林檎もぎれビーム!」をメインで歌っている「サブカルの帝王」大槻ケンジのことも『絶望先生』を通して知った。オープニングの主題歌を歌う彼の歌唱はお世辞にも上手いものではなかったが、そのかわり、味があって、粗雑でありながらも魅力的であるように思われた。

しかし、当時において印象深かったのは、大槻ケンヂではなく、絶望少女たちのほうだった。

絶望少女たちとは「絶望先生」の生徒たちで、「絶望先生」なんかよりずっと主人公らしいぐらい、それぞれキャラ立ちしている。学校という舞台の主人公が教師ではなく生徒であるとかいう話をしているのではない。彼女たちは、それぞれ癖が強く、しかも割と理解できなさそうな変な内面を持っている。つまり、絶望少女たちは個性、それも他のキャラクターとの差異を超えた、自立した個性を持っているのだ。

絶望少女たちが互いに明確に異なる個性を持っているということは、アニメにおいては彼女たち個々の声の特徴によくあらわれていると思う。個性的なものが大量に共存しているシチュエーションが好きな筆者にとって、「林檎もぎれビーム!」のなかで、彼女たちの個性的な声が、それぞれの独自の響きを損なわれることなく、他の個性的な声と次々と組み合わされていくさま、全員の個性がひとつも蔑ろにされることなく平等に扱われているさまには非常にぐっと来るものがあった。

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しかし、そんなことよりも筆者を遥かに感動させたポイントがある。あなたはもうすでにオープニングのサビの部分をご覧になられただろうか。絶望少女たちが声を揃えて「林檎、もぎれ、ビーム」と歌っている部分だ。

当時の筆者は、自分の周りに強力な秩序がもたらされることを願い続けていた。自分の属する無秩序な学校社会に心を痛めていたからだったが、その一方、教室内の秩序が回復することはもうなく、秩序が回復したところで失われた人々が戻ってくるわけではないこともとうの昔に理解していた。そんな当時の筆者にとって、絶望少女たちの「林檎、もぎれ、ビーム」という合唱と、それと同時に画面に表示される彼女たちの手の映像は、一生手に入らないだろう理想的な世界の象徴、すなわち、「人々が個性を失うことなく秩序のなかで統合されている状態」の象徴に他ならなかった。歌詞に出てくる言葉を引用するなら、そうした世界はまさしく筆者の「パラダイス」だった。

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林檎もぎれビーム!」のサビでは、大槻ケンヂが「向こう側へ/絶望のわずかな」と歌ったあと、絶望少女たちがすかさず「こっちがわへ」と歌い、聞き手を誘惑する。それが素直な誘惑ではないことは、たとえば彼女たちが他の箇所で述べている「お仕事でやってるだけかもよ」「マニュアルではめてるだけかもよ」という冷笑的なセリフから明らかだ。しかし、だからこそ、聞き手は彼女たちのいる「向こう側」と距離を取り、「向こう側」を甘やかなファンタジーとして受け止め、彼女たちの誘惑を心地よい嘘と見做し、それに安心して身を委ねることができる。セイレーンはその歌声によって聞き手を引きつけ、聞き手の身を滅ぼしてしまうが、絶望少女たちは聞き手をクールに突き放してなにも滅ぼさない。彼女たちは、その歌声においてすべてを甘やかに放置する。

悪いオタクとは何か、そしてこのオタクソングがすごい!という話

文=秋津燈太郎

 

先日、印象に残った今年のオタクソング(アニソン、ゲーソン、声優の楽曲など)を紹介してくれと悪いオタクの友人に頼まれた。どうせブログのネタもないしざっくり紹介するかと思っていたのだが、どのような基準で選んでいるのかを示さないと散漫な印象を与えかねないため、私がどのような種類の「悪いオタク」で、日頃どのような態度でアニソンなどを消費しているかを簡単に説明する。

 

◾️悪いオタクとは?

ネットサーフィンやアニメ鑑賞が生活の一部になっているからだろうか、おれは悪いオタクだからとか、それは悪いオタク(の行動)ですよとか、何かにつけて「悪いオタク」という言葉を使っているのだが、それの確たる意味は正直よく知らない。「どうせ独自すぎる解釈を他人に押し付けることでしょ」などとゆるふわな理解をしていて、ネットで用例を調べてみた限りでは間違いではないらしいけれど、どうやら他の意味も色々とあるらしい。その分類はおおむね以下の4種類にわけられる。

 

①マナーの悪いオタク

②自分と合わない人との関係を容赦なく切り捨てるオタク

③自身の解釈を強要するオタク

④現実の物事 を自分の好きな作品の世界観で解釈するオタク

 

自分の行動を照らし合わせてみると、①に関しては気をつけているから身に覚えはあまりなく、②は無意識下でやっているかもしれない。

は思い当たる節はあるのだが、議論の流れだったり、あるいは私の話を必要以上に受け入れすぎたりと、結果論としか言えないケースも多々あるのでグレーだ。

もっとも深刻だと自覚しているのは④であり、隙あらば好きな作品の世界観を通してものごとを解するのは日常茶飯事。そのなかでも、名設定や名言をコンスタントに生み出す『HUNTER×HUNTER』にはとりわけお世話になっている。たとえば、多弁のせいで身を滅ぼすひとを見ては「答えは沈黙」などと心のなかで呟いて、同僚がこれまで誰も気付かなかった問題を発見したときなどは、問題を見抜く眼を持ちながら対処する実力まではない人間が首を突っ込んだら身を滅ぼすのを同作品で学んでいるので、独断での対処は控えるよう忠告している(ヨークシン編でクロロの手刀を見逃さなかったひと)。

どうにもピンとこない方は、人生を漫画にたとえる人間のようなものだと思って欲しい。

 

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クロロの手刀を見逃さず、単独で彼を仕留めに向かったおじさんは無残な最期を迎える。他人の力量をなんとなく推し量れるけれども対処まではできない、中途半端に優秀な人間の例である(ゲェーン!!)

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また、上記4種類の他にも見過ごせないと思われる点もひとつある

 

⑤無闇やたらと作品外部の文脈を解釈に利用するオタク

 

これは④と似ているように思えるが、現実の物事を解釈しているわけではない点、そして、外部の世界観、あるいは法則を適用しているわけではない点において異なる。引用するのはあくまで作品に携わっている人々の文脈や事実、ありていに言えば予備知識に他ならない。

実績に基づいて対象を理解する特性上、作家論を考える場合はそこそこ役立つ一方で、作品そのものを読解する際にはあまり意味をなさないところに難がある。とあるプロジェクトの企画段階において、成功した昔のプロジェクトに使われた方法を無思慮に採用することが危険なのは察しがつくのではないだろうか。

とはいえ、外部の文脈を踏まえることで作品をより魅力的に感じられたり感慨を得られたりするケースは確かにあるので、盛り上がりながら作品を楽しむ方法としては悪くないのもまた事実。私自身、作品を娯楽として消費するときは⑤の方法をよく使っており、オタクソングもまたご多聞に漏れずである。たとえば、Q-MHz東山奈央の楽曲「I,my,me,our Mulberryにおいて東山は性質のことなる複数の声を使い分け、あたかもツインボーカルであるかのように演じているが、『艦これ』で金剛四姉妹をひとりで演じた実績を踏まえれば「正しい使い方」であると感じられるのである。

今回は⑤において印象深かった楽曲を紹介する次第である。言うまでもなく、条件・前提において作品への評価や意見はだいぶ異なる。質そのものがより優れていたり魅力的だったりする曲は他にもあるだろうし、今回紹介する曲にせよ、別の切口から考えればより面白く観えるかもしれないことははじめに断っておきたい。(他人に教えられないという前提において、徳は知識ではないとソクラテスが結論づけたように)

とりあえず説明に手間取ったので前編で2曲ほど紹介し、もし需要があれば後編で3曲ほど取り上げたい。

  

◾️SKY-HI「Diver’s High」

 

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ガンダムビルドファイターズのOP。MVを観ればすぐにわかることなので殊更言うまでもないのだが、あるときはAAAの日高光啓として、あるときはラッパーのSKY-HIとして活動する彼はとにかく顔が良い。

この曲は、元東京事変亀田誠治と、UNISON SQUARE GARDENの斎藤宏介を迎えたことでも話題になった。個人的にポイントが高かったのは、スカパラの「白と黒のモントゥーノ」やスガシカオの「Music Train ~春の魔術師~」、尾崎世界観の「栞」など、とにかくボーカリストとしてのゲストが多い斎藤宏介をはじめて“ギタリスト”として招いた点。

UNISON SQUARE GARDENの曲をよく聴いているSKY-HIは、かねてから斎藤のギターのプレイングにも注目していたらしく、とにかくエフェクターの踏み替えの多いユニゾンの複雑な楽曲を完璧に弾きこなす様子を「タップダンスを踊ってるみたい」とラジオで言及していた。(たしか自身のラジオであるACT A FOOLだったと思う)

まぁよく観ているものだと感心するが、実はこのふたり、早稲田実業高校と早稲田大学の先輩後輩で、在学中から互いに意識していたのだという。

1985年生まれで先輩の斎藤宏介は、ひたすら顔が良くてモテそうなSKY-HIに多少の嫉みを感じ、対する1986年生まれで後輩のSKY-HIはといえば、校則を平気で破り、一匹狼的な雰囲気を醸し出していた斎藤宏介に憧れと少しの畏怖をおぼえていたそう。そんなふたりが三十路過ぎになってようやく共作したのだから、両者のファンとしては喜びもひとしおなのだ。

 

 

◾️中島愛「サブマリーン」

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中島愛という名前に聞き覚えのない方は、『マクロスFのヒロイン、ランカ・リーの中の人と聞けばピンとくるだろうか。

2008年当時、19歳でランカ・リー役に抜擢された彼女もいまや29歳。若くして脚光を浴びた彼女であったが、マクロス以降の歌手活動は山あり谷ありだったようで、3rdアルバムを発表した2014年に歌手活動を休止をし、2年後の2016年に活動を再開、それからさらに2年後の今年になってようやく4thアルバムの『Curiosity』を発表した。

本アルバムの最大の特徴は、経験ゆたかな作詞曲家(新藤晴一本間昭光フジファブリック前山田健一など)がこれまで以上に多く制作に加わることで、どうしてもランカの影の見え隠れする曲ばかりだった3rdまでに比べて多様性が増し、それによって公共性が上がっている点にある。ここでいう楽曲の公共性とは、楽曲を楽しめる視聴者の幅を意味し、一般ウケを狙って本来の持ち味を失うことでは決してない。それどころか、歌手としてのポテンシャル・引き出しは前作までよりも活かされており、「Life’s The Party Time!!」では溌剌とした歌唱を、「サタデー・ナイト・エスチョン」では楽曲の展開に合わせたメリハリのある歌唱を、「未来の記憶」は彼女が元々得意としてきた儚げな歌唱を披露している。

では、様々ないろどりを放つそれらの楽曲に比べて「サブマリーン」は何において特出しているのかと言うと、ひとことで表現するなら、不自然さである。

先に列挙した曲は、曲調と歌詞がマッチしている点において「自然」だが、「サブマリーン」はその真逆。底抜けに牧歌的でご機嫌な曲調なのにも関わらず、歌詞では人間関係への絶望や現実に対する過酷な認識が表現されていて「不自然」である。

ベッドに沈んだままで 今は逃避のサブマリーン

潜望鏡を伸ばしては 外の世界を覗き見ている

 

行き交う人 恋する人 夢みる人の目が眩しすぎて

 

ここは静かな海 息を潜めて 涙が作る小さな海 一人きりの

いつまでもここにはいられはしない

浮かび上がる準備しなくっちゃ そろそろ

水面はキラキラと輝くだけじゃない 嵐の夜もきっとまたくる

どんな時も私の船の舵はこの手でぎゅっと 握っていよう

 

私の悪口を言う 友達たちの歪んだ口

潜望鏡を音も立てず 海の中に下ろして泣いたの

 

信じること 交わること 手をとりあうことは簡単じゃない

 

そこは猟奇の森 危険でいっぱい 赤く光る目が私を見つめている

いつまでもここにはいられはしない 強くなる準備しなくちゃ いよいよ

世界はキラキラと輝くだけじゃない 孤独な夜もきっとまたくる

闇の中に落ち込まないようにあなたの声を 聞かせて欲しい

 

誰もいない 遠い海の上 森の空の上

見上げている 祈っている 無数の星 今夜は 歌っていてね

 

ここはリアルの街 地面を踏んで 大人の顔に微笑みを 絶やさないの

心にはサブマリーン 感情全部 誰にも見せたりはしない 大事な場所

 

大事な場所 私だけのサブマリーン

大事な場所 秘密の場所

誰にも届かない場所は この胸 

あたかも孤独が一生続くかのような詞を提供したのは、ポルノグラフィティのギタリストである新藤晴一である。私なんかは思春期に『ミュージック・アワー』などを聞いて育ったR.N.”恋するウサギちゃん”世代なので馴染み深いのだが、様々な音楽ジャンルやミュージシャンの台頭のせいか、最近は昔ほど話題にならないポルノグラフィティ伸びやかなボーカル、そして無骨さでありながらどこか可愛げのあるサウンドが特徴的であるが、かつて私がよく聴いていた理由は歌詞にあり、過去、現在、未来のあまねく時間において運命に支配され続けるのが人間であると言わんばかりの絶望感が好きだった。

無知無能であるゆえに他人を情を抱かずにおれない人間たち、つまり、愚者たちと関わらねばならない天使の気苦労と諦念を示した「オレ、天使」。

”悲しみが友の様に語りかけてくる 永遠に寄り添って僕らは生きていく”という一節が印象的な「シスター」。

基本的には頭から結まで流れの決まっている演劇と、どう足掻いても運命を受け入れざるを得ない限界を重ね合わせた「ジョバイロ」は、新藤晴一の作詞スタイルを端的に表している。

人は誰も哀れな星 輝いては流れてゆく

燃え尽きると知りながらも誰かに気付いて欲しかった

 

胸に挿した一輪の薔薇が赤い蜥蜴に変る夜

冷たく濡れた舌に探りあてられた孤独に慣れた心

 

舞台の真ん中に躍り出るほどの

役どころじゃないと自分がわかっている

 

あなたが気付かせた恋が あなたなしで育っていく

悲しい花つける前に 小さな芽を摘んでほしい

闇に浮かんだ篝火に照らされたら

ジョバイロジョバイロ

それでも夜が優しいのは見て見ぬ振りしてくれるから

 自分のこころを「静かな海」、現実を「猟奇の森」と見做し、人間関係における孤独を受け入れる「サブマリーン」の語り手。「遠い海の上」や「森の空の上」という自身から遠く離れた場所に輝く「無数の星(≒あなた)」の歌声をよすがに生きる人間は、私にとって懐かしい友人のように思えてならなかったのだ。

【連載:ゲームと選択肢】第二回 『OneShot』

文=一条めぐる(@ichijo_meguru)(同人サークル「あるふぁちっく」主宰)

 

こんにちは、一条めぐるです。

今回は、前回の最後で言及した「選択すること」について『OneShot』というゲームの紹介を交えながら書きます。

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www.youtube.comストアページはこちら

 

【『OneShot』とは】

『OneShot』とは、2016年12月9日にsteamでリリースされたゲームです。
『OneShot』は2014年にフリーゲームとして配布されたものが最初であり、このオリジナル版はゲーム制作ツール『RPGツクール2003』で制作されています。その後、2016年に『RPGツクールXP』で制作されたのがリメイク版です。

今回ご紹介するのは、このリメイク版のほうです。その点についてはあらかじめご了承ください。

また『OneShot』は、ネタバレを読んでいるかどうかでプレイの質が大きく変わる作品なので、重大なネタバレは避けますが一応ご留意ください。

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【『OneShot』の概要】
『OneShot』は、主人公の「ニコ」が突然見知らぬ世界で目覚めるところからはじまります。プレイヤーはニコを導き、元の世界に返してあげなければなりません。そして、プレイヤーはゲーム内で「神様」と呼ばれています。
舞台となる世界は、太陽が消えてしまっており、暗闇に閉ざされています。このままでは破滅を迎えてしまいますが、幸いにも預言者ロボットによれば救いがあるといいます。なんと、ニコが地下室で見つけた電球がこの世界にとっての太陽らしいのです。これを遠くに見える塔に持っていくのが、ゲームの当面の目標になります。

つまり、このゲームの基本にあるのは「暗闇に閉ざされた世界で新たな太陽を運ぶニコ、それを導く神様」という構図です。

(注)バックストーリーや細かな操作感などについては、こちらの記事が参考になるかと思います。

 

【『OneShot』における選択の重み】
このゲームの特徴は「プレイヤーも登場人物である」ということに尽きます。

プレイヤーの選択によって世界は、あるいはニコは不幸な目に合ってしまうかもしれません。それはつまり、あなたの決断がゲーム世界を不可逆的な事態へと進ませてしまうということです。
「一度きり」という意味のタイトルを持つ『OneShot』はオートセーブ式の作品であり、そのため、ゲームが不可逆的に進行していく仕組みになっています。プレイヤーの選択に意味を持たせるようにデザインされているのです。

前回の記事で紹介した、正解に辿りつくまで何度もやり直せる『Will』とは、まったく逆の仕組みだと思います。
そもそも、現実の世界では選択した行動はやり直せない一方、「セーブ」と「ロード」という便利な機能があるゲームの世界では、不都合なことが起こった際は「セーブ」した時点から選択をやり直すことができます。
そのとき、先ほどまでのプレイ内容はゲーム世界にとって「なかったこと」になります。

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しかし『OneShot』では、「セーブ」「ロード」といった機能は原則禁止されています。恐らくはプレイヤーとゲーム世界を繋ぐためでしょう。
それゆえに、ひとつひとつの選択がプレイヤーにとって重い意味を持つことになるのです。

 

【『OneShot』のメタフィクション性】
『OneShot』のように、ゲームという画面内に限定された枠組みを超えて、現実のプレイヤーに直接的に働きかけてくるような構図や属性を持ったゲームはしばしば「メタフィクションゲーム」と呼ばれます。
最近のゲームでは、そのようなメタフィクション性は、プレイヤーの無責任さを咎めるようなネガティブな方向で用いられている場合がすこし多いかもしれません(これは込み入った話になってしまうため、こちらでは割愛させていただきますが、より詳しく知りたいかたは、複数タイトルのネタバレを含みますが、こちらの記事が参考になるかと思います)。

しかし『OneShot』にかぎって言えば、メタフィクション性はどちらかといえばポジティブな方向で用いられており、たとえば
「そもそも、なぜあなたのPCが別世界と繋がっているのか?」
「ニコが飛ばされた世界では一体なにが起こっているのか?」
「あなたはニコに対してなにをしてあげられるのか?」
といったような事が、物語を進めるうちに明らかになっていきます。

また、『OneShot』のメタフィクション性は「ニコや、冒険の先々で関わることになるキャラクター達にリアリティを与え、プレイヤーに自身の選択の重みを理解してもらうようにすること」「PCゲームだからこそ可能なギミックが多数用意されていること」の二点によって特徴的なものとなっています。
もしご興味を持たれた場合は、ぜひニコと共に世界を歩き回ってみてください。
「神様」として課せられた選択にはつねに重い意味がつきまとうことになりますが、だからこそ、『OneShot』は忘れることのできない思い出のゲームになりうるはずです。

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それと、ニコはとても純粋でかわいいです。
愛らしいキャラクターと世界を回り、ときおり会話を交わすのもこのゲームの醍醐味なので、ぜひ仲良くしてください。

 

次回は、ゲームの「選択肢」について、すこし掘り下げてみたいと思います。
それでは。

第二十七回文学フリマ東京出店のおしらせ

文=榊原けい

 

気付けば気温もすっかり寒くなり、私の下宿の薄い壁からはひりつく冷気と灯油売りの物悲しい音楽が入り込んでくる、そんな季節になりました。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。


さて、今回は同人誌頒布に関するお知らせです。

この度、われわれ抒情歌は11月25日(日)に東京流通センター第二展示場にて開催される「文学フリマ東京」に出展することとなりました。

文学フリマとは、全国各地で開催されている文学系作品の展示即売会であり、出版社の方や同人サークルの方々が出展し本の販売を行うイベントです。
参加者層は十代から九十代までと幅広く、会場では商業誌・同人誌のほか、しおりやブックカバー、写真といったグッズの販売も行われております。


今回抒情歌は新刊となる『GRATIA vol.4』(700円)に加え、既刊の『GRATIA vol.2』、『GRATIA vol.3』(各500円)の販売を行います。

 

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新刊の『GRATIA vol.4』は、「文学と愚者」をテーマにした特集のもと、四篇の評論作品が掲載されているほか、エッセイ、脚本、小説といった個人原稿を掲載した豪華な本となっております。
抒情歌メンバーの三名に加え三名の方から原稿の寄稿をいただき、ボリュームアップしました。
是非ブース(2F キ - 06 「抒情歌」)へと足を運んでくだされば幸いです。


新刊に関するより詳しい情報は抒情歌のTwitterアカウントをご参照ください。
それでは、当日の会場でお待ちしております。

 

 

文学フリマ東京に関する情報はこちら

第二十七回文学フリマ東京 (2018/11/25) | 文学フリマ