抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

時事ネタ - 日傘男子と傘の歴史

文=秋津燈太郎

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 20年前に比べて最高気温の平均が4〜5℃も上昇しているとの噂を聞いて、さすがに日傘を導入しようと思った次第である。ひとであれモノであれ、自分と関わるものは多少なりとも歴史を知っておいたほうが良いという持論があるので、わずかではあるが調べてみた。

2013年に流行語大賞に「日傘男子」という言葉がノミネートされていたことを思うと、日傘をさす男性は少し前から増えつつあったようだ。じゃあ、もっと前から使っているひとはいるのかしらと調べてみたら、沖縄には半世紀も前から日傘を愛用している男性がいた。

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ところで、沖縄戦を経験した彼にとって日傘は平和の象徴らしいのだが、沖縄の葬儀では、出棺がもし昼ならば黒い日傘を棺にさすならわしがあるので、ともすれば死の象徴と捉えることもできるだろう。

「傘」という物はそもそも神秘的な性質を帯びており、その起源は古代文明にまで遡れるのかもしれない。以下の記事では雨傘と日傘の別なく、「傘」の歴史について特集している。

parasolumbrella.web.fc2.com

雨傘よりも日傘の誕生の方が早いこと、傘は女性によく使われていたらしいこと、日傘は雨傘よりも装飾性に富んでいたことなどが図版と併せて述べられている。気になる方は読んでみてほしい。

クラシック音楽 - グレン・グールド『モーツァルト:ピアノソナタ第八番 イ短調 K. 310(第一楽章)』

文=竹宮猿麿

 

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最近はグレン・グールドが演奏するモーツァルトを聴きました。筆者は専門的な音楽教育を受けておらず、クラシック音楽についてはほとんど知識がありませんが、なぜか昔からグレン・グールドの演奏するものだけは気に入っていて、時おり聴いています。

グレン・グールドはカナダ出身のピアニストで、1932年に生まれて1982年に死んでしまいました。変人として知られており、真夏にもコートを着てハンチングをかぶる、父親に作ってもらった異様に低い折りたたみ椅子に座って極端な猫背の姿勢で演奏する、ハミングしながら演奏してしまう癖のせいでレコードに「ノイズ」がよく録音されてしまうなど、兎に角エピソードには事欠かないタイプの方でした。アスペルガー症候群だったのではないかという説もあり、愛読書は夏目漱石の『草枕』だったそうです。

素人判断ではありますが、彼の演奏は軽やかで速く、どこか雑です。しかしその雑さはアマチュアの下手な雑さではなく、手慣れた指のはじき出す音の揺らめきというようなもの、正確で優等生的な演奏よりもずっと人間味に富んだ、やさしい響きを持ったもののように感じます。

彼がよく演奏していたのはバッハでした。バッハといえば重々しいイメージがある人が多いように思いますが、それもグールドにかかれば軽やかになり、仄かに明るい色合いを帯びます。かの有名な『ゴールドベルク変奏曲』も例外ではありません。

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バッハの演奏家といえば、二番目の奥さんが日本人だったフリードリヒ・グルダが二十世紀では代表的と言われています。彼の音は質量感のあるもの、ひとつひとつに重みのあるもので、さすが「ウィーン最後のピアニスト」と呼ばれた人物だけはあるように思います。バッハを聴くとなれば、誠実な解釈を行っているだろう彼の方がよいのかもしれません。

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それでも筆者が聴いてしまうのは、おおよその場合はやはりグールドの方です。なぜなのかは明確には分かりませんが、彼の軽やかで仄明るい音色に、時おり、切なさのようなものを感じるときがあるのが、一応の理由として挙げられるのかもしれません。元気で健康的な雰囲気すらある『イギリス組曲』の演奏のなかに、かつて、悲しみのようなものを感知してしまったことがありました。所詮は無学な人間の誤解に過ぎず、グールドの方としましても、単に弾きたいように弾いていただけのことなのかもしれません。それでもなお、そこには切なさや悲しみとしか言いようのないものがあるように思えてならなかったのでした。

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そういうわけで、久しぶりにグールドを聴いていたのですが、かつて演奏のなかに感じた、誰のものなのか分からない悲しみを、疾走するように突き進んでいく『ピアノソナタ第八番』第一楽章の演奏のうちに再確認し、不明瞭な懐かしさを覚えました。このように甘やかな誤解を呼び起こすところに、グールドの人気の秘密があったのかもしれません。

 

最後に、個人的に気に入っているグールドの演奏動画を上げて終わります。カメラの前でもいつもどおりマイペースに弾いているグールドのやわらかい演奏と、かつて神童と呼ばれたユーディ・メニューインの格好良くシリアスな演奏が対比的で面白いです。

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短編アニメ - デビッド・オライリー『おねがい なにかいって』

文=竹宮猿麿

 

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最近、David O'Reillyの『Please Say Something』という短編アニメーションを観ました。2009年の作品なので古いものだと言えなくはないですが、さいわいにもまだ全然楽しんで観ることができました(そういうものを、もしかしたら良作と呼ぶのかもしれません)。

アニメーションと聞いて我々が思い浮かべるのはおおよそ日本アニメ、より厳密にはアニメ風のタッチで美少女が描かれている動画(いわゆる美少女アニメ)ではないでしょうか。しかし、たとえばアメリカには『パワーパフガールズ』『マイリトルポニー』といったカートゥーン・アニメ、『リック・アンド・モーティ』のようなシットコム・アニメがあり、日本には、かの有名な宮崎駿に象徴されるジブリ・アニメをはじめとして、押井守イノセンス』のような映画の影響を受けたアニメ、新海誠『君の名は』のような爽やかで綺麗な画面のある種「純粋な」アニメ等々があります。アニメにも多様性があるという話ですが、作者のオライリーさんはアイルランド出身でドイツのベルリンを拠点に(少なくとも当時は)活動していたというのですから、そこから察するに、アニメの国際的多様性というのは東京某所でひっそりと生きている筆者の想像を軽く超えていくほどのものなのでしょう。

当作品はネズミとネコのカップルの物語を描いたもので、全編に切なく仄暗い雰囲気が漂っています。この世界のネコはみんな頭が巨大で、とてもかわいらしいです。あまり見ないタイプのデフォルメの仕方のおかげか、単純な割には見ていて飽きが来づらいように感じます。

建物や家具から生物に至るまで、作中世界のあらゆるものが直線的に、またはゴツゴツとした姿で表現されているあたりは当時の「バーチャル・リアリティーへのイメージ」が過剰化された形で反映されているようで面白いです。どんなものでも古くなってしまうので仕方のないことではあるのですが、時代を感じます(とはいえ、表現の古さ新しさが作品の面白さに直結するかといえば、かならずしもそうではないでしょう)。

おおよその感想としては、泣ける話で楽しめました。ネズミがネコにドメスティック・バイオレンスを行うというあたりがあべこべでよかったです。

 

 

なお、作者のデビッド・オライリーさんのサイトです。

David OReilly

ついでに他の方が当作品について書いた記事も上げておきます。

ネズミとネコの夫婦の困難な関係を描いたアニメーション | しちごろく

『おねがい なにかいって』デヴィッド・オライリー – たんぺん メイキング 拾い

David O’Reilly「The External World」 - CHARA PIT

琉球文学 - 島尾敏雄『琉球文学論』第2章

文=秋津燈太郎

 

第二章 琉球語について

 

1.琉球弧の範囲

琉球列島の範囲としては奄美、沖縄、宮古八重山の島々と限定することができるが、それらの島々の呼称については一考の余地がある。たとえば、「琉球」という呼び名は中国側からの呼称であるゆえに現地の人々に避けられているし、「南西諸島」では作戦用語のようなものものしさが出てしまう。そのなかでとりわけ妥当と思えるのは、日本列島が弧状の島嶼から成立していることに由来する「琉球弧」である。特定の国からの呼び名でもなければ、特殊な意味が込められているわけでもなく、あくまで地形にを基に考えられた呼称なので、客観性が高いと思われる(加計呂麻島をはじめとして、島ごとに自称と他称のことなる事実もあるので)。

 

2.琉球語と日本語

琉球語と日本語は起源が同じだと言われており、日本語の古い言葉、つまり、万葉あたりの言葉がなごりとして表れていると見做すむきもあるのだが、言語の変化の速度という点も考慮するならば、それよりもはるか昔に端を発しているとも言える。

言語学者の服部四郎氏は言語は一定の速度で変化すると主張している。島尾氏自体にもその仮説は実感を伴っているらしく、たとえば、若い女性の発言を耳にすると、ここ2、30年の間に「じゃ」の発音が「ざ」に変化しているように聞こえるとのこと。

そのような仮説のもとで言語変化の速度を計算してみると、1450年ほど前の奈良時代に日本語(京都方言)と琉球語琉球方言)が分離したと推測できるものの、それ以前の、五千年から一万年とも言われる縄文時代の長い共同体験を無視することはできない。分離以前の時間が非常に長かったため、どうしても日本語とのにかよいを感じざるを得ないというわけである。

琉球文学 - 島尾敏雄『琉球文学論』第1章

文=秋津燈太郎

 

琉球文学についての講演を文字に起こした『琉球文学論』は、島尾氏の論理の曖昧さに加えて書き言葉としての文体が粗雑なこともあり、とにもかくにも読みづらい。とはいえ、彼自身の主張はさておいて、書かれている内容の資料的価値はたしかにあるし、これから琉球文学の読解に取り組もうとしている者の足がかりとしても優秀なので、簡潔明瞭に論旨をまとめてみようと思った次第である。

ご意見・ご指摘などあれば遠慮なくお願いいたします。

 

 

・第一章 なぜ、琉球文学か

1.

琉球方言で書かれた文学を琉球文学と本書では呼ぶ。

琉球語という独立した言語ではなく、あくまで日本語の一方言という表現にした理由は、日本語も琉球の言語も起源をおなじにしている可能性があるという説に因る。(とはいえ、太平洋戦争後に移住した島尾氏の感覚では、本土とはことなる様子があるのは否めないようだ。)

 

2.

1543年のポルトガル船の北上や日本船の南下以前には、東南アジアの貿易の橋渡しとしての役割を担っていたと今でこそ周知であるものの、歴史的事実を裏付ける資料は長いあいだ存在しなかった。

その資料が発見されたのは昭和(1931年)になってからである。

貿易に関する資料(琉球と取引国それぞれの遣使の身分証明や貿易の意向)をまとめた『歴代宝案』が発見された久米村は、外交に必要な技術や知識を琉球王国に根付かせるべく、1372年以降に明の太祖が遣わせた移住者たちの住む地域であった(※1)。そのような事情でよそより技術や知識に長けたひとの多い土地であるためか、三司官の蔡温をはじめとする為政者を多く輩出してきたようで、おそらく、『歴代宝案』はそこの秘匿文書として代々丁重に受け継がれてきたので、発見が遅れたのであろう。

 

3.

辿ってきた歴史が地域によって異なる以上、奄美沖縄本島、先島を一緒くたにするのは問題がある。たとえば、奄美薩摩藩琉球入り(1609年)に際して割譲されているが、沖縄本島の治世はそれまで同様に琉球王府によりなされてきた。つまり、本土からの影響に差がある以上は、文化面も多少なりとも異なる展開をしているはずである。本土をふくめた各々の島の差異を考察するべきであろう。(島尾氏は後に各島ごとの琉球文学のちがいについて実際に述べている)

 

1:彼らは「閩人三十六性」とも呼ばれ、造船、船舶修理、航海術、通訳、外交文書作成、商取引方法についての技術と知識を蓄えていた。また、久米村は琉球王府の配下ではなく相対的に自立していたようで、久米村総役と呼ばれる代表の下に複数の役職を擁するような自治色のつよい組織だった。(高良倉吉琉球王国』より)

あかしの裏返し

文=榊原けい

 

目の前のだれかが、あなたに作品の感想を話す。

あなたは、その人の口ぶりに、あるエピソードにいたく共感していることや、奇妙な言い回しを繰りかえし用いる癖や、特定の小道具にたびたび言及する執着といったものを発見する。するとどうだろう。こういうとき、相手も一人の人間で、これまで生きてきた道のりでいろいろなものに出会い乗り越えてきたのだろうという、ごく当たり前のことを再発見させられるのではないだろうか。そのような痕跡に触れたとき、僕らはそれらのあかしが暗示するその人の内面を垣間見ることになる。

作品にたいする感想や批評を言い交わすとき、単なる発言の内容だけではなく、語の選び方や対象の扱い方から対象との距離の取り方までをふくむ、語り手の手つきに相当する部分もまた、僕たちの間をわたるようだ。

古くから筆跡やふるまいには人柄が現れると言われるけれど、語り手の手つきを裏返しにしたときにも現れるものをお互いに読み合うこともまた、それらの云いに通ずることなのだろう。そして、そうした痕跡のやりとりは積み重なるにつれて二人の間だけで通じる暗号にまで様相を変えてゆき、やがて僕たちはそのような暗号を共有していることを親密さのあかしとして胸に秘める。

せわしない社会生活の陰で、人々はそのようにして心という観測不可能な領域を手探りにたしかめ合うようにして知っていく……感想を伝え合うときに行われるそういったやり取りは、そんなプライベートな営みの一種ではないだろうか。

そんなふうに鑑賞体験が人と人をつないでくれるのなら、それは素晴らしいことだと思うのだ。

僕個人の体験ではこんなエピソードがある。高校生の頃、父が僕を映画館へ連れて行ってくれたときのことだ。

当時の僕から見て、我が家の人間関係は緊張状態にあった。家族どうしが対立しあい、事務連絡いがいの会話はほとんどなく、怒鳴り合いの喧嘩が頻発し、子どもを部屋に押し込めて何時間も「しつけ」するという状態が何年も続いていて、家族はバラバラだったのだ。

当然のことだけど、人は巡り合う人にしか巡り合わないのだから、僕は和やかな家庭を願っていた。長い時間が解決するまで、喧嘩した人々の仲裁やフォローをし、自分は争わずにされるがままになる立場を取ると決めて暮らしていた。それが二人で外出するという。

当時の僕は父にたいして感謝や尊敬の念を抱くのと同時に、恐れ、憎んでもいた。弱い心は自分の非を認めなかったり、逃げたり、隠したりといった悪行に人を誘惑する。当時の僕は、自分が家族に歩み寄る勇気を持てないでいることを恐怖のせいに押し付けるあまり、父に怯えたり憎んだりしてしまっていた。映画館へ向かう車の中で、こわばりすぎて震える手足を抑え付けながらミラー越しに父の顔色を窺っていた。

映画館を出てから、父は僕に「どうだった?」と感想を求めた。

僕は言葉に詰まり、正解を探したが、それは見つからなかった。恐怖や憎しみへの誘惑や、親しくしたい気持ちがせめぎ合う複雑な状況だったのだ。自分と相手を注意深く見ながら言葉を並べようとし、それはやがてあいまいになり、途切れとぎれになり、ついには何も言えなくなってしまった。居たたまれなくなって、別のことに話を逸らした。

良好な関係を望むいじょう、やりすごすためのウソの感想を僕は自分に許せなかったし、かといって恐れていた父に感想と切り離せない自分の内面をさらけ出すことも恐れて、できなかったのだ。そしてそのために、正解ではないとわかりながら僕は父の厚意をふいにしたのだ。

そのとき感じた居たたまれなさは、父の善意に自分の未熟さのせいで応えられない心苦しさでもあるのだろう。映画の感想を言うという、ただそれだけのことが、背景や状況によってはとても難しくなるのだと気付かされたエピソードだ。

映画にしても、小説にしても、鑑賞するさいに僕らはみな自分の精神の内側で作品と交わりあう。劇場がスクリーンと観客の一対一の暗闇を作り出すように、本が読む者に対してだけ開かれるように、鑑賞というのは本来とても個人的な行為なのではないか。作中で重要な位置づけにあるわけではない小道具や仕草がなぜか強く印象に残ったり、隣で観ているともだちは笑っているのに自分一人だけ泣いていたりするように、たとえ似通った感想を抱くとしても一つとして同じ鑑賞体験はなく、その違いの部分が口ぶりや語り口に鑑賞した人間のあかしとなって浮かび上がってくる。出会う人としか出会えないからこそ、僕はそういうものを大切に思う。

未だに解決の見通しが立たない家族とのディスコミュニケーションや、友人になれたかもしれなかった人々といつの間にか疎遠になっていたことなどを想うたび、そうしたものごとを書き残したいという未練に似た欲求は僕の中で高まった。

いろいろな物事が人びとの関係を阻むのだから、せめて親密な人とのワンシーンをこっそりと写真や動画に収めようとするように、こうして書きとどめるのもよいと思う。

いまお伝えしたような考えに基づいて書かれるこの一連の散文集は、僕の視点から映画と自分を含むさいきんの若者との関係を眺めて書かれるものになる。このあかしを巡るいとなみの記録が、読んでくださるあなたにとって、何かの役に立てば幸いだ。

 

創刊の辞(『グラティア vol.1』所収)

〈作者〉という概念がひとびとの文学観を支配し、解釈といえば作品にこめられた〈作者〉の気持ちやテーマを読みほどくことだった当時のなかで、批評家ロラン・バルトが提唱したのが「作者の死」でした。「文学ないしテクストは自律しているため〈作者〉とは無関係に解釈できる」とするそのアイデアは、ひとびとに大いに歓迎されましたし、たしかに文学解釈に新たな自由をもたらしたことでしょう。

しかし、バルト以降の文学理論や文芸批評のシーンは、たとえば植民地や差別などの政治的トピックをテクストから解釈しようとする傾向が強く、〈作者〉のかわりに〈社会〉が王座に君臨したかのような印象を受けます。また〈作者〉の追放にともない、ウォルター・ペイターやT・S・エリオットに代表される審美的な批評スタイルが廃れ、専門家たちが文学における良さを具体的に論じなくなったことから、「良い文体とはなにか」「良い作品とはなにか」をじぶんなりに模索したり、文学をより楽しんだりするのに役立ちそうな、いわゆる「主観的な」ヒントというものが世間に流通しなくなってしまいました。

もちろん、学術的に〈社会〉を解明するのはそれじたいで意義あることですし、文学とは各人が心のままに定義・享受すべきもので、他人発祥のヒントなどという不純物は必要ないのかもしれません。とはいえ、まず、文学が文学理論や現代哲学の知識によってのみ理解できるものだとはかぎりません。また、他人のアイデアからヒントを得ることで、文学への新しい洞察や楽しみ方に開かれる可能性は無視できないものとおもわれます。

サークル「抒情歌」の私たちは、文学、さらには文化というものを、理性のみならず直観や感覚などからも成立する(している)ものと考えています。その立場から良い文章を書きたい、良い作品を論じたいというねがい、『グラティア』を創刊した次第です。

多彩な価値観が咲きみだれ、個人の意思や嗜好が尊重される現代社会の例に漏れず、私たちもまたそれぞれ別々のおもいのもとで、いまに至るまで別々の道を歩んできました。これからもそうあることでしょうが、その一方で、喫茶店で文学や音楽などの話題で雑談するたびに、共感が生まれたり、互いにヒントを得たり、不思議と道が交わったりしてきたのもたしかな事実です。あなたと『グラティア』にも、そのような瞬間があれば幸いです。

 

(注:ブログに転載するに当たって、文章は一部修正されています)