抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

Web漫画 - のむぎ『コンビニ弁当は腐らない』

文=竹宮猿麿

 

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コンビニ弁当は腐らない-のむぎ

 

【『コンビニ弁当は腐らない』とは】

『コンビニ弁当は腐らない』は、自作漫画・小説のコミュニティサイト新都社で2009年頃から掲載されている未完結の漫画です。ジャンルとしては「近未来SF」に該当します。

作者はのむぎさんという方です。当作品以外も新都社に掲載している他、ツイッターもされているようです。

全雑誌(作品一覧) - Web漫画とWeb小説の新都社

のむぎ (@_nomugi) | Twitter

 

【『コンビニ弁当』のダークな世界観】

作品の大筋は、「某国」に占領されて二十年経った日本で「僕」が二十歳の女性「カンリー」と一緒に生活する話です。彼らの暮らす社会は、秩序はあっても平和はなく、空気と雨は化学物質で汚染されています。カンリーの身長が80センチ程しかないのも胎児の頃に有害物質にさらされた結果なのだそうです。日本国内での貧富の格差は激しく、国土と人々は某国の「実験」に捧げられ、水道水は浄水されておらず、動物愛護地域の住民たちには動物を殺す権利が与えられています。

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笑うと歯がボロボロのカンリーは母親に疎まれていて「僕」のところへ捨てられます。保護した犬が毒殺されたのをきっかけにカンリーと一緒に引っ越そうとした「僕」は、中央区住民に対する某国の新薬実験(自分たちへの事実上の死刑宣告)が決定されたことを知り、絶望したのか「帰ってきてから何もしゃべ」らなくなります。某国サイドの監視員である元英雄の「ワン・コー」は中央区住民に脱出ルートを教えようとしますが、中央区住民達からの罵声を前に帰ります。

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【『コンビニ弁当』における食事、生、社会】

この作品ではしばしば食事に関するシーンや台詞が出てきます。作中世界の食べ物は腐らず、人々はクローンの野菜や肉を食べます。「僕」はブタニクとキャベツを買い、カンリーは「僕」の作った料理を食べます。上手く食べることができず、ポロポロ落としてしまいます。街にはクジラの肉を売る店があり、監視員のご馳走は赤犬です。それらの光景は作中人物たちの環境の異様さを際立たせると同時に、あちらとこちらの世界を繋ぎ、彼らの生活に奇妙な日常的リアリティをもたらしています。

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『コンビニ弁当』の作中社会の食べ物は腐りません。生ものが腐らないのは時間の停止を象徴しているかのようです。実際、作中の日本社会には未来がありません。むしろ死の気配ばかりが立ち込めています。食べ物は本来、生を支え、象徴するもののひとつであるはずです。それなのに、作中においては、汚染されているせいで腐らないという一点によって象徴内容を逆転させています。腐敗した社会で腐らない食事を食べる存在、それが「僕」とカンリーなのです。

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そのような環境下であるにもかかわらず、殆どの場合は目の前の現実を淡々と受け止め、自分たちなりに生きていこうとする登場人物たちの生は、他者とのコミュニケーションによって紡がれていきます。そのコミュニケーションを主に媒介するのが他ならぬ食事です。腐らない食事が社会の腐敗を象徴すると同時に「僕」とカンリーの生を繋いでいる、とは皮肉な話ではないでしょうか。

そもそも、もしまともな社会であれば二人が出会うことはなかったでしょう。あらゆる関係の根源にあるこうした偶然性は、大事な隣人が本来は他の人物でもありえたことを突きつけてきます。しかし、人間はなにかしらの媒介のもとにコミュニケーションを重ねていくなかで「この人こそが私の隣人である」という必然性を互いに獲得するのです。一人と一人が必然性のもとに並んで二人になること、そのような二人の繋がりは一般的には関係と呼ばれています。その点では『コンビニ弁当』は、お互いのことをなにも知らない「僕」とカンリーが一つ屋根の下で隣人関係を結んでいくという、「共同体の起源」に関する近未来的な神話なのかもしれません。

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また、こう言うこともできるのかもしれません。まともではない社会で人々が自分たちの関係を原初的な形態にまで押し戻して再構築している状態、全体的な繋がりを失った社会が人々によって基礎的な営為へと還元されることでなんとか崩壊はせずにすんでいる状態、というのを『コンビニ弁当』は予期せずシミュレーションしているのだと。その点において、『コンビニ弁当』は人間社会が実は食卓を中心に成立していることを示唆しているように見えます。人間が食事をともに分かち合うかぎり、社会は崩壊寸前までいっても案外維持されるのかもしれません。食卓を囲むことには希望があると言えるでしょう。その希望とは「未来のない社会に生きる人々ですらも抱くことができる」希望、「失われた未来が回復される可能性だけは失わずにすむことから来る」なけなしの希望です。その意味では暗く淡々とした雰囲気の『コンビニ弁当』は本来、死の横で人間が人間的な関係を人間らしい食事風景のなかで取り戻していく話なのかもしれません。そう思うと、この作品が未完結なのはとても惜しいことです。

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