抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

アニメソング - 岡崎律子『For フルーツバスケット』『小さな祈り』

文=竹宮猿麿

 

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 アニメ版『フルーツバスケット』(2001年)の再放送をはじめて観たのは小学五年生の頃で、そのときにオープニングテーマとエンディングテーマを歌っていたのが今は亡き岡崎律子さんだった。

フルーツバスケット』に関しては、登場人物の多くが暗い過去や人格的な難点を抱えていたり、その背景には個人ではどうしようもない一族の呪いや家庭問題があったり、そもそも一族の呪いが「異性に抱きつく(もしくは抱きつかれる)と十二支のうちの特定の動物に変身してしまう」というなぜか闇の深い設定だったりと、温かみのあるタッチで描かれている割にはやけに終末的な雰囲気を感じさせるアニメだったという印象が強い。

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しかし最近になってふと、そんな印象のおおもとには、オープニングとエンディングに流れていた岡崎さんの、か細く、柔らかい、ささやくような歌声があることに気づいた。子供だった当時の筆者は彼女の曲に「なにかの終わり」を感じ取り、アニメを観終わるたびに後で正体不明の悲しさに襲われては訳も分からずに泣いていたものだったが、そうした神秘的な感覚も今はもう大半が失われてしまっていて、そのことを特に気にも留めなくなってすらいる。

原則として、失われたものを取り返せることはほとんどない。 実際に私達は岡崎さんを2004年に失ってから14年の歳月を経てもなお、彼女の歌声を黄泉の国から奪還できずにいる。もちろん、彼女の既存の音声からサンプリングすることを通して彼女をボーカロイドとしてこの世に復活させることはまったく不可能ではない。しかし、大半の人々はそうしたかたちでの復活はあまり歓迎しないのではないだろうか。

というのも、私達は彼女の取り返せない生を惜しんだうえで、その生の一部である歌声を惜しむからだ。 それぞれの存在は唯一であるからこそ、そのうちにおいて無限の広がりを持つのであり、その喪失はひとつの世界の消滅に他ならない。私達が失ったのは彼女の身体ではなく、岡崎律子と呼ばれた世界なのだと思う。

失われた世界は宇宙の外側を永遠にさまよう。どのような最新テクノロジーや思い込みも、そのような世界を途方もない孤独から救えないし、死に対する私達の先天的な無力感を癒やせない。ただ耐えることのみがゆるされており、その作業は古来から弔いと呼び習わされてきた。彼女の忘れがたみを聴くたび、会ったこともない彼女の存在を思い出し、心のどこかで彼女の不在を悼むことになる。そして彼女の歌声にかえって慰められながら、昔あった神秘的な感覚をわずかに知覚する。

 

そう、彼女の曲にはどこか死を予感させるところがある。

当時の筆者がそこから察知したのは、今から思えば「存在にも終わりがあるということ」の深刻さだったのではないか。このことは思いつきとして片付けられるほど案外無根拠ではない。というのも、彼女の歌詞には「生きているということ」やそのなかでの努力がよく歌われているからである。

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たとえば『For フルーツバスケット』は「心ごとすべてなげだせたなら/ここに生きてる意味が分かるよ/生まれおちた歓びを知る」と、『小さな祈り』は「たのしい夕げ さあ囲みましょう/今日の涙は ほら 明日の力にして」と歌っている。

一見するとやさしい気持ちを述べた「ありがちな」、つまりは社会に流通している定型文を使っているようではあるが、そのなかで深刻な認識をひそかに示しているところに岡崎さんの作詞の魅力がある。彼女の歌詞は生に対する強い肯定を表明する一方、現実のままならなさや生きていくことの難しさをニュアンスとしてつねに含んでいる。

ところで、そのような明るいメッセージと奥にある暗いニュアンスはすべて、無限であるはずの私達を矮小化する全事象の有限性を暗に指し示している。

彼女の歌詞においては、生を歓ぶこと、より細かく言えば他者に対する強い愛情や恋心、そして心に左右されることなく生きていくしなやかさがが全体いっぱいに湛えられており、ときには直接的に讃えられているが、それらは、存在の脆さ、他者の失われやすさや他者との距離感、心の克服しがたさに対する認識なしには出現しえない。

存在の有限性を志向する認識は、究極的には死をまなざしている。彼女自身がそのことを意識していたかどうかはともかく、歌詞上に浮かびあがる彼女の意味体系は、死の方向に対して振る舞っている。

 

ガンに侵された岡崎さんは晩年、病室にもキーボードを持ち込み、なにかに憑かれたかのように作曲していたというエピソードがある。あるとき、彼女の母親がそれを見かねたことがあったが、そのとき彼女は母親に対して「いいものを残しておきたいから頑張る」と言ったという。

先程の筆者の見解と岡崎さん御本人のエピソードをもし交差させるなら、「いいもの」ないし良い作品というのは、死自体に対しては無力であるものの、意味を構成してくれると言える。そして意味は人間を死の無意味さ(別の言い方をすれば、現実の根本的な不条理)から保護してくれる。

その点から言えば、意味とは保護膜であり、それを構成しようとする努力は死への抵抗ということになるのかもしれない。つまり、あたかも文明ないし都市が自然から城壁でみずからを守ると同時に区別するように、生もまた意味によってみずからを守ると同時に死から独立させるのである。

もし深刻な認識が、意味の外側には死に代表される無意味が広がっていることを知りながらも、生きているかぎりは意味を全力で構成していくしかないことを認識する認識なのだとしたら、彼女の他者に対する愛情は、そうした苛烈な認識をあらわにすることなく、むしろ少女漫画的な雰囲気でやさしく包み、誰でも心地よく聴ける安全な音楽として提供するところにあったのだと思う。

 

今更ではあるものの、とりあえず岡崎さんのプロフィールをざっと紹介しておきたい。

彼女は1959年12月29日に「軍艦島」の名で知られる長崎県端島で生まれ、高校時代にはバンド活動を行っていた。1985年からはCMや他のアーティストに曲を提供するようになる。そして『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1991年)や『ラブひな』(2000年)等に曲を提供するなどアニメ界隈でキャリアを着実に積み上げていったが、日向めぐみmeg rock)さんと2002年にメロキュアを結成してこれからという時期にスキルス性胃癌が発覚し、2004年5月5日に44歳で死去した。

以上はWikipediaの記事の要約だが、ネット上の他の記事でも大抵はこの程度までのことしか書かれていない。これが私達が彼女について知りえるおおよその限界なのである。

彼女がインタビューに答えることはもうありえないし、誰かが彼女との思い出を公で語るシチュエーションがこれから後にあるとも思えない。つまり、彼女のことをより詳しく知る機会はもうない。これが死んでいるということ、さらに言えば情報化社会において死んでいるということなのだろうか。彼女のサイトも当時から更新を停止したままで、今日では古めかしくなったデザインがどこか物悲しさを感じさせる。

もし死の彼方にあの世が本当にあるとすれば、だが、ひとりのファンとして彼女の冥福を、できれば『小さな祈り』に倣い、彼女の彼岸での一日一日の終わりが素敵なものであることを祈りたい。

技術同人誌 - 技術書典5と純肉本

文=秋津燈太郎

 

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近況ですが、10/8(月)に池袋サンシャインの文化会館で開催された技術書の即売会、「技術書典5」に行ってきました。

技術書とは(基本的に)IT技術に関する情報を掲載している書籍でありまして、プログラミング言語の入門書からニッチな分野の技術を詳説したものまで、多くのサークルから様々な技術書が販売されています。

2016年にはじめて催されて今年で3年目になりますが、サークル数、来場者数ともに順調に伸び続けているようです。今回はいつにもまして熱気がすごく、入場待機列は建物の外まで伸びる有様で、開始からだいぶ経った13:00過ぎに到着した私でさえ10分ほど待たなくてはなりませんでした。

www3.nhk.or.jp

私は、セキュリティを意識したWebアプリのテスト技法、発表されてから日の浅いプログラミング言語Juliaの入門書、ハッカーに焦点を当てた米国ドラマ『MR.ROBOT』に出てくるプログラムの解説本などなどの本を購入しました。そのなかでもとりわけ興味を惹かれ、なおかつIT技術に馴染みのない方にもわりと関係しそうな「純肉本」という同人誌を本日は紹介させて頂きます。

 

そもそも純肉とは?

純肉とは、動物の幹細胞を培養して造られた肉の別称です。

糞便汚染や水資源の大量消費といった環境問題を解決し、ことによれば食中毒すら改善させうるとして注目を集めています。200を超える世界の企業が研究を行なっており、牛はもちろん、鳥や魚でも実験が進んでいるとのこと。

アメリカではクリーンミートと呼ばれている培養肉ですが、日本ではどうして純肉なのでしょう?それは、純粋培養肉の研究および作成を目的とした有志のコミュニティShojinmeat Projectが、カタカナ語をこれ以上増やしたくないという思いから、あえて「純肉」という呼び名を作ったからです。察しの良い読者はお気づきでしょうが、まさしくShojinmeat Projectこそ「純肉本」の発行元に他なりません。(Shojinmeat Projectの概要については次章で説明いたします)

wedge.ismedia.jp

欧米を中心に世界各国で注目を集めているその純肉ですが、ビル・ゲイツをはじめとする多くの著名人が開発に巨額を投じています。先述のとおり環境問題や食糧難を解決する可能性を秘めているからでしょうが、分野としてはまだまだ発展途上で、生産量は少なく、それゆえに一般大衆が気軽に買える値段ではありません。それでもなお、2013年時点では3400万円だった純肉のハンバーガーの値段が今後は1200円ほどになると予測されているので、我々が純肉を気軽に味わえる日が来るのもそう遠くないのかもしれません。私も早く食べてみたい。

 

Shojinmeat Projectとは?

2018/10/17現在、公式サイトがサーバー移管のため停止しているようなので、CAMPFIREに掲載している概要から簡単に引用します。詳細を知りたい方は下記のページをご覧ください。

camp-fire.jp

"Shojinmeat Project"は、2014年に研究者、バイオハッカー、学生、イラストレーターらが集まり、動物を殺さずにタンクの中で筋肉細胞を育てて作る食肉、「純肉(培養肉)」の実用化を目指すために結成された組織です。当初はメンバーの実家のお風呂場で実験したり、メンバーがバイオスペースとして供用していた個人宅を借りて培養液を試作していました。

 世界中にメンバーが点在しており、東京近郊に住んでいるメンバは週に1回の頻度で実験手法・結果などの情報を交換しているようです。

 

fabcross.jp

 

純肉本

さて、ようやく本題の純肉本です。純肉本とはShojinmeat Projectが年2回発刊している機関誌で、純肉の開発進捗や代替食料の現状についてのレポートが主に掲載されているようですね。

今回私が購入した純肉本は2018年の夏号でして、純肉をとりまく環境や、宇宙での人口肉培養についての考察、純肉料理に合うワインの選定シミュレーション、自宅での純肉作成方法をまとめた漫画などが収録されています。門外漢の私にとってはどの記事も新鮮で読み応えがありましたが、とりわけ考えさせられたのは「純肉の「おいしさ」の重要性」という記事でした。

何にせよ、人間の手を加えた養殖物・人工物よりも、天然物・素材の良さを活かしたものを我々は好みがちですし、その嗜好が人工物へのバイアスを生んでもいます。やせ細った天然の鰻と、立派に肥えた養殖の鰻の写真を知人に見せてどちらが天然だと思うかと尋ねてみたら、ガリガリの天然物なんてありえないから後者だと豪語されたこともあります。天然物、人工物に対するバイアスの存在をしめす好例でしょう。(人口食料の極みであるカロリーメイトで不満なく1ヶ月暮らせる私も、鰻の味に関しては天然の方が好きですけど笑)

当記事の筆者の松吉・間島さんは、おいしさは食物的要因や人的要因により判断されると踏まえたうえで、さきほど私が例示したような心理的な要因も「おいしさ」に影響を与えると述べています。

 

純肉のおいしさも人的要因と食物的要因から決まるとすると、従来の肉(家畜由来)に比べ、純肉は人的要因によって悪影響を受けることが予想される。人間には「新規恐怖」という、今まで食経験がないものを食べることを躊躇する行動が本能的に具わっている。

……

また、純肉が人工的に作られたものと強く認識されることも、純肉のおいしさにとっては悪影響かもしれない。真実は別として、「天然ものだからおいしい、養殖は天然よりも尖ったもの」という個室した考えを持つ人は一定数存在する。純肉の話に置き換えると、従来の家畜肉は天然・純肉は養殖、のように認識されてしまう未来も容易に存在できる。

 

 

新規恐怖に対して松吉・間島さんは社会に浸透すれば解決するらしく、では、そのためにどのような努力ができるかというと、純肉の食事前後に「おいしさ」を提供することだと述べています。つまり、純肉の優れた形状、色調、光沢により引き起こす「食物新規性嗜好」で食前の新規恐怖は打ち消して、さらに実際に舌で感じる味もぬかりなく上等にすれば良いというわけです。

そして、純肉にはそれを可能にするポテンシャルを秘めているとも言います。

もし将来的に細胞レベルで純肉が設計できるようになれば、様々なニーズに応える純肉を培養できるようになるだろうし、個人でもそれが可能であれば、そのひとの好みに合わせた純肉も作成できるだろうということです。

 

 

おわりに

いかがでしたでしょうか。培養肉について不勉強なこともあり、至らない点も多々あったと思いますが、純肉の魅力や熱さが少しでも伝わったのならそれに勝る喜びはございません。

まだまだ発展途上の純肉開発ですが、自分だけの最高の純肉を追い求める個人培養者だったり、好きなひとの肉を培養して食す変態も将来的に現れるのかもしれませんね。たのしみです。

ヒップホップ音楽 - PHARAOH『ДИКО, НАПРИМЕР』

文=榊原けい

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 以前の記事

「検索ボックスに「ロシア ヒップホップ」や「russian hiphop」などと打ち込んで色々な曲を聴いてみました。
 とりあえず、聴いたものの中でいいなと思ったものをごく簡単に、何回かに分けて紹介していこうと思います。」

 と書きましたので、その続きです。

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 今回ご紹介するのは、モスクワを拠点に活動するDead Dynastyというクルーのラッパー、PHARAOHです。

 PHARAOHは1996年モスクワ生まれの二十二歳。特に若い人たちから人気を得ています。

 影響を受けたラッパーとしてSnoop DogやEminem50 cent などを挙げているほか、クラウド・ラップ(ASAP Rockyなどがその好例として知られています)というスタイルをロシアのシーンに持ち込もうとした人物としても知られているようです。

 

 PHARAOHのプロフィール等の情報は他サイトの紹介が詳しいので、よく知りたい方のために以下と記事の最後にリンクを貼ります。

avyss-magazine.com

 

 今回取り上げる『ДИКО, НАПРИМЕР』という曲は、スネア音の連続する不気味なトラップ調に奥行きのある音を重ねたトラック、若者の放蕩のような光景を描いたビデオ、押し殺した低い声のラップによって、狂気と人工的な落ち着き、そして不穏な陰鬱さを印象させる魅力的な曲です。 

 トラップ調のトラックにドラッグや性関係の事柄についてのラップを載せるスタイルはいまどきの若いラップスターらしい傾向ですが、PHARAOHの独自性はもう少し細かいところにあります。

 その独自性の説明に入る前に、そもそもトラップってなんだ?という方もいるかと思われますので、簡単な説明と代表例を上げて把握しやすくしてみます。

 

 トラップとは、元はヒップホップ音楽の一ジャンルで、非常にざっくり言うと、重低音を強調したビートに特有の連続したスネアの音などが入っているようなものを指します。
 細かい定義や歴史は本題から逸れるので深堀せず、ここでは言及しません。

 イメージしやすいように例を挙げると、
アメリカではKendrick LamarやFutureなど、
日本ではKOHHなどがトラップにおいて代表的と言われています。

 

Kendrick Lamar - HUMBLE. - YouTube

 

 ざっくりしたイメージとマップが出来たところで、本題のPHARAOHの特異性に戻ります。

 『ДИКО, НАПРИМЕР』などに見られるように、彼のラップおよびMVには、奥行きのある音が響くトラック、針葉樹林の深い森や猟犬を映したビデオ、押し殺した低い声のラップといった特色があります。

 こうした特色は、不気味なトラックとスキャットやダンスによって不良やヤク中の不気味さを表現するようなある種の典型的なトラップとは一味違います。
 抑制を効かせた表現を織り交ぜることで狂気と人工的な落ち着き、不穏な陰鬱さを演出する、という独自のスタイルを築いているラッパーと言えるかと思います。

 

 

 ここから少し派生して、MVの風景から楽しむヒップホップについて少し書こうかと思います。

 画像や映像の技術がひろく浸透して、映画やゲームの中で見た「初めて来たはずなのに見覚えのある景色」と出会うことが珍しくなってきた現代は、見方を変えれば「自分から好きな年代・好きな町のデータを探せるようになった時代」とも言えるでしょう。

 古い日本映画などを見たときなどに、半世紀前の東京の景色にハッとすることなどがあります。

 それは、今はない街並みや風景が在ったことの証(としての記録や作品)が、なんというか、壮大なものだと認識する瞬間です。

 

 ヒップホップ音楽のミュージックビデオの流れの一つに(特にストリートやギャングスタのラッパーと言われるような人たちの流れとして)、自分たちのリアルの風景を背にラップするというものがあります。

 これは曲のプロモーションとして自分たちのノリや楽しみ方を発信すると同時に、自分たちのフッド(地元、活動拠点)を記録し発信する、という姿勢だと私は思います。

 わかりやすい例の一つが、宅地の劣化によって廃屋化・犯罪率の上昇などが進んでいた町ブロンクス区出身のラッパーKRS-ONEなどです。

 KRS-ONEのMVには、ブロンクス区のストリートの一風景を映しているものがいくつもあります。

 

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 ブロンクス区は第一次世界大戦後に宅地開発ブームが進み住居が増えたものの、犯罪率の高さから人々が流出し、1970~80年代には建物の劣化した貧民街となっていたことで有名な町です。(こうした土地からヒップホップカルチャーが始まったと言われています。このことについては本題から少しずれるので割愛しますが、現在では再開発が進み、住宅地区として回復してきているそうです。)

 当時の映像は資料としては残っていますが、そこに住んでいた人たちのノリが部分的にでもよく現れているのだろうなと思いながらMVを見ると、見ごたえが変わってきます。

 

 今回の記事で紹介しているPHARAOHはストリート育ちというわけではないので、MVにフッドのノリを見出すことは難しいかもしれませんが、針葉樹の深い森を通る一本道を高級車が進んでゆくカットなど、風土を感じられる部分はいくつもあり、そういった部分がどことなく曲の寒冷地的なノリの表現に一味加えているようにも思われます。

 

 クルーやクラブがInstagramYouTubeのアカウントから写真や動画を発信することも決して稀ではない現在、「景色やノリの記録を見る」という意味でも、国名とジャンルを検索フォームに打ち込んでビデオを比較してみるというのもヒップホップ音楽の楽しみ方の一つなのかもしれません。ブロンクス区のMV、東京下町のMV、ネオン街のMV、ロシアのMVといった風に。

 

MSC / 新宿2015 - YouTube

 

 

 ごく簡単な紹介をさせていただきましたが、最後にPHARAOHのほかの曲や詳しい情報のあるサイト・ブログへのリンクを貼って今回はおわりとしたいと思います。

  ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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ddxd.hatenablog.com

 

ja.fehrplay.com

 

 

【連載:ゲームと選択肢】第一回 『WILL-素晴らしき世界-』

文=一条めぐる(@ichijo_meguru

 

はじめまして、一条めぐると申します。
普段は別の同人サークル『あるふぁちっく』の主催を務めています。
今回、旧来の友人である竹宮猿麿氏から執筆のお誘いをいただきました。
ちょうど趣味について綴るブログが欲しいなぁと考えていたのもあり、快諾いたしました。

何を記事のトピックスにするか考えながら、自室のPCデスク前で船を漕いでいましたが、その時間は1分もなかったと思います。
というのも、私はゲームを布教するのが大好きです。
面白い作品について、誰かと感想を共有したくなりますし、さらに面白いと思った作品が他人にとってもそうであるならば、これ以上の喜びはないわけです。
なので、ゲームについて書きます。

 

ゲームにはじめて遭遇した頃や状況は、世代によって様々だと思います。
私のゲーム体験のはじまりは幼稚園に通っていたころ、父親が叔父より引き取ってきたというスーパーファミコンでした。
大量のタイトルと共に譲り受けられたのもあって、『ロマンシングサガ3』や『ドラゴンクエストⅢ』や『クロノトリガー』などの名作RPGを父親がよくプレイしていました。
人のプレイを見ながら、あーだこーだ言うのがとても楽しく、また唯一無二の親子間交流でもありました。
そうやって多感な幼少期をゲームに囲まれていたので、ひとよりも思い入れが大きめです。

最近は社会人になり、お金や時間をそこそこ確保できるようになったので、アメリカのValve Corporationが運営するゲーム販売プラットフォーム『Steam』やPS4を利用し、自分でプレイすることも増えてきました。

 

これから皆さんに紹介したいのは、主にインディーズと呼ばれる個人や少人数グループによって制作されたゲーム群です。

インディーズはメジャーなゲーム群よりも、掘って掘って輝きを秘めた原石を探す楽しさがあります。ハズレを引くこともありますが、それもまた醍醐味です。

今回ご紹介するのは、中国のクリエイターが製作した

『WILL: A Wonderful World(日本語版題:WILL-素晴らしき世界-)』です。

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公式サイトはこちら
日本語での紹介は電撃オンラインのこの記事が参考になるかと思います。
日本向けのパブリッシャーであるPlayismから、日本語版が購入可能です。リンクはこちら

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このゲームは、ジャンルとしてはアドベンチャーゲームになるかと思います。
このジャンルは古くから存在しています。
文字を読み進めて物語を楽しんでいくシンプルなゲームで、大半の作品においては選択肢以外にプレイヤーの干渉の余地がありません。
単純に、プレイヤーが展開をコントロール出来る小説と思ってください。

 

人生の転換点に立たされたとき、あなたもまたどう進んでいくか選択すると思います。
転換点はあなたの生き方を変えるかもしれませんし、何も変えないかもしれません。
この作品には、そんな転換点に立たされる(というか、立たされまくる)12人のキャラクター達がいます。
プレイヤーは、選択によってどん詰まりになってしまったキャラクター達の手紙を受け取り、それを読み解くことで、彼らに何が起こってしまったのか追体験します。

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そしてより良い結末に導くために、出来事を入れ替えることによって問題を解決します。
ときには別キャラクターの手紙と入れ替えることで、キャラクターに本来しなかった別の行動をさせることもできます。
プレイヤーはそういう力を持つ神様なんです。不思議な立ち位置ですね。

 

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面白いのが、画像のように猫の行動を人間側に入れ替えると、意味が変わってくるところです。
猫が持ち上げたはずの干し魚を人間側に入れると、どこからともなく”くさや”が飛び出します。
およそ荒唐無稽な状況ですが、これによってピンチを脱出できるようになるわけです。
その他にも銃をオモチャにすり替えたり、男側にワンピースを着るシーンを入れることで女装させたり……と、様々な方法をもって、状況を打破していきます。
ハッピーエンドを迎えるために、因果関係を入れ替えるわけですね。これが単純ながら面白いんです。
さながらパズルのようにワードをはめかえるだけで、物語がガラリと変わります。
上手く解決できたときはやってやったという達成感と、次はどうなるのかといった物語への興味が尽きません。
自然に次へ次へと進めてしまうため、プレイすると手が止まらなくなります。徹夜には注意しましょう。

 

そもそも選択をやり直せない私たちにとって、あそこでこうしていれば……という後悔はつきものです。
『WILL』は、ときに時間を巻き戻し、再選択することによって解決を試みますが、それとは逆に、選択がいかに重い決断であるか問い直す作品もあります。
プレイヤーが動けば動くほど状況が悪化していく『かまいたちの夜』もその一つかと思います。
こちらは雪山のロッジにおける殺人劇なので、私たちが到底遭遇するシチュエーションではありません。
ですが、プレイヤーとして参加する以上は責任を持たざるをえなくなります。舞台がゲームであっても、選択するのは常にあなたなのです。
この『WILL』も例外ではありません。

ときには残酷な決定をすることもあるでしょう。
砂をかむようなざらりとした不快感が、あなたの中に渦巻く瞬間があるかもしれません。
しかし、こういった”選択”自体を問うのは、最近のインディーズゲームでは珍しくないのです。

次の記事では、この選択することについて、もう少し詳しく語りたいと思います。


誤解のないように言うと、『WILL』にはきちんとエンディングが用意されています。
すべての手紙を読み解き、神様を含めた世界の真実に触れたときの読後感も素晴らしく、きっと思い入れのある作品になるかと思いますので、ぜひプレイしてみてください。


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この作品はザッピングと呼ばれるシステムを採用しています。
アドベンチャーゲームの発展とこのシステムは関わりがとても深く、製作者たちによるインタビュー記事でも言及されています。
興味があるかたは読んでみてください。

アニメソング - bôa「Duvet」

文=竹宮猿麿

 

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筆者の周りにはいつもアニメ好きな友人たちがいたし、今でもそうだ。

これには世代の問題もあるだろう。筆者の世代(1994年前後)は、中学生になるかならないかという時期に「灼眼のシャナ」(2005-2006年)、「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年)、「らき☆すた」(2007年)等の有名アニメを立て続けに浴びせられた。後に中高生の関心と時間をごっそり奪い取っていくことになるニコニコ動画もサービスを開始したばかり(2006年12月)だった。

筆者の中学校の運動会では「ハルヒ」のオープニング曲「ハレ晴レユカイ」のダンスが三年間連続で踊られていたし、当然筆者も今も多少踊れる程度には踊らされた。「けいおん!」の第一期(2009年)が放送されたときは軽音部に入る人間が急増加し、その影響でロックを聴いたりギターに触れるようになった学生がたくさんいた。

そのような時代を通過し、オタク側に位置する友人知人たちに囲まれて生きてきたにもかかわらず、筆者はアニメを心から好きになることができなかった。好きな人々がオタク側なので好きになれるよう努力してきたが、アニメを好きになる才能にはついに恵まれなかった。だから、アニメという文化には負い目を感じ続けていて、今でも機会があればなるべくチェックするようにしている。

 

先日、アニメ「Serial experiments lain」(1998年)を全話一気に観た。

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そのときは日本酒の飲み過ぎでべろんべろんになっており、隣で一緒に観ている友人に向かって「ねえこれつまんない! つまらないよね? ねえ!」と意味もなく絡んでいたが、内心では冷静に「これはたしかに面白いかもしれない」と思っていた。

諦念にも似た倦怠感のある仄暗い雰囲気、訳は分からないが独特な世界観を垣間見せてくれるストーリー展開、時々唐突にやってくる洗練された演出の一場面。全体的には作品としてしっかりした出来だとは言いにくいものの、ワンクールの放送だけで二十年後の現在まで語り継がれるカルトアニメになるだけのことはあった。

だが筆者の関心を強く引いたのは、作品本編よりも、話の冒頭で毎回流されるオープニングのほうだった。一言では表現できない「lain」の世界観をもっとも分かりやすく表現しているような気がしたからだったが、それにしてもやけに音楽が格好いい。特に終わりあたりの切なげな雰囲気が、友人宅から帰宅した翌日もずっと忘れられなかった。

Googleで調べてみると、それはbôaというイギリスのロックバンドが歌っている「Duvet」という曲だと判明した。bôaについてはWikipediaと「lain」でシリーズ構成を務めた小中千昭氏によるこの記事に詳しく書かれている。興味のある方はぜひ参照してほしい。

ところでこの記事によると、小中氏は「Duvet」を初めて聴いた際に地味だと感じたそうである。

その点は筆者も同じだった。

最初に聴いたとき、聞き慣れないタイプのサウンドと歌唱だったので実はあまりよく理解できず、派手な部分があるわけでもなかったので、まさしく小中氏と同じく地味という感想を抱いた。「アニソンってのはもっとこう、景気がいいものなのでは」という偏見があったことは否定できないが、それでも筆者と小中氏の最初の印象はあながち間違ったものではないように思われる。「Duvet」は良くも悪くも内向的な曲なのだ。

だからこそ、一話一話と観るなかで繰り返し聴くうちに「Duvet」の魅力が分かるようになってきた。ボーカルの、わずかに哀愁を帯びながらも無表情で平然とした歌声は、たしかに分かりやすい抒情性を欠いているかもしれない。だがそれゆえに、サウンドのどこか悲しげな雰囲気を一層悲しいものにしているのではないだろうか。

「Duvet」全体としても、あっけらかんとしているようで、陰鬱で、冷ややかで淡々としていて、しかし決して情緒的ではないというわけではなく、むしろ切なさを幽霊のように不確かなかたちで感じさせてくる。それはまさに筆者が「lain」全体から感じた印象でもあった。

いや、逆に「Duvet」を聴いてアニメ本編の雰囲気をそう感じたのかもしれず、もはや「lain」と「Duvet」は筆者のなかでは渾然一体となっている。だから「Duvet」について語るのに「Duvet」だけを取り上げることはできそうになかった。「Duvet」は筆者にとってはロック音楽である以上にアニソン、「lain」のオープニングテーマである。アニソンはひとつのれっきとした音楽であると同時に、アニメの一部でもある。そうした認識が筆者のなかで「lain」と「Duvet」を渾然一体化させてしまったのかもしれない。

ここ最近は毎日「Duvet」を繰り返し聴いている。これが「lain」の一部なのだとしたら筆者は「lain」がそこそこ好きなのだと言えるし、いずれは作品全体を本当に好きになれる日だって来るかもしれない。そして「lain」を通してアニメというもの自体が心から好きになれたなら……そんなささやかな夢を期待感もなく託しながら、明日も「Duvet」を聴くことだろう。

 

「Duvet」とこれまた渾然一体化しているオープニングのアニメーションだが、その最後のシーンが初めて見たときからずっと気に入っている。

 

歩道橋の上で風が吹き、主人公の玲音の帽子が吹き飛ばされてしまう、と同時に烏が飛翔する。ボーカルの歌声が余情とともに引いてゆき、烏を眺める玲音の顔がアップで映される。吹き飛ばされたはずの帽子はなぜか宙に固定されて微動だにしないが、玲音はそれを顧みることなく、ポケットに手を突っ込んで何事も起きなかったかのように去っていく。

そして、曲調の切なさは終わりを前にして唐突に増し、サイバースペースを思わせる背景に半透明の玲音が現れる。彼女は悲しそうに目を伏せて首を振ったあと、なにかを悟ったかのように斜め上を見、そのまま揺らめいて背景に溶けていってしまう。

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UTAUオリジナル曲 『ホワイトナイト』


文=榊原けい

 

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 このところ、実家付近の景色をよく夢に見る。
 現れるのは薄暗い公共施設や外界の音が遮断された雑木林――私が不登校のころに彷徨っていた場所ばかり――である。

 治療のためと言い張ってアルバイトで生活の諸経費を稼ぎながら大学へ通うことで何かが好転すると考えていた私は、無意識汚染の深刻さを甘く見ていたのだろう。

 けっきょくのところ、その好ましいと忌まわしいとに関わらず、スケールの大小に関わらず、記憶力の続く限りは誰もが自分の過去と共に在り続けるのだと思う。


 不登校のころを振り返ると、混乱と無気力の底へと沈んでゆく私を、当時繰り返し聴いていた曲が食い止めてくれていたように思う。

 

 あらゆる人に心を閉ざすとき、唯一触れ合える他者は作品のみ。

 ありふれた話ではあるけれど、作品によって心が救われることもあるようだと思う事にしている。

 それはおそらく、作品が社会的あるいは公共的に評価できるかどうかといったことではなく、個人的に作品に癒されるとか、そういうことなのだ。

 個人の精神に作品が寄り添う、とか、癒す、とか、そういったことは基本的には評論や批評では語られることがないので、今回はそういうものについて書いておこうと思い、書いてみる次第だ。

 

 私にとってのそういった作品はいくつかあるのだが、N・W・レフン監督『ドライヴ』やNas『Purple』、Nujabes『Lady Brown』など、と挙げてみるとどうも音楽に多いらしい。

 ダウナーな情感を醸し出すメロディラインをもつもの、といったような傾向性は見出せるけれど、それだけでは不十分な気がする。

 本記事では、上記のような経緯でお世話になった曲を紹介したいと思う。

 

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 ナカノは4番という人の『ホワイトナイト』という曲である。

 脆さと甘やかさのあるメロディラインに、意味するところこそ汲み取れないものの語り手の苦しみを暗喩したような歌詞、そして人間ではないボーカル。
 私はその曲に色々なものを見ていた。冬が訪れる直前の、乾いた空気の中に充満する腐葉土の匂い、桃白色の空、正体の解らない懐かしい匂いがする風。

 そうして思い起こされたイメージや曲の情感に少なくとも私は助けられたし、皆さんにとってもそういった作品があれば、Twitterやブログなどを通してシェアしてみるのもいいかもしれないと思う次第だ。

 

 記事の最後に、作者の方のほかの作品やSNSへのリンクを貼って締めくくらせていただきます。

 それでは。

 

 

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活動日誌 - あいみょん『君はロックを聴かない』

文=秋津燈太郎

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どうも、抒情歌の秋津燈太郎です。つい昨日、抒情歌内で会議が開かれましたので、本日はその報告をいたします。

文フリの報告ひとつすらしないのに今更かよと思われるかもしれませんが、それというのも日頃から活動を応援してくださっている方々に、お前らは一体なにがしたいん?どこを目指しているんだね?まだ解散してないの(笑)?などと頻繁に尋かれるからでして、まあ、知るかよ死ねとしかぶっちゃけ答えようがないのですが、活動の様子をご覧に入れて、せめて雰囲気だけでも伝わればいいなぁと目論んでいるわけです。

主な議題は「グラティアのレイアウト」と「あいみょん」です。まずはレイアウトについて。

我々は春と秋の文フリの年2回、グラティアという文芸評論同人誌を発行しています。主に文学を中心とした芸術全般への評論や、詩や小説などの文学作品を掲載しており、ラテン語で「恩寵」を意味する誌名のように、読者のより良い生活に少しでも寄与できればとの思いで作られております。

創刊号の執筆者は主宰の榊原けい、広報の竹宮猿麿、そして私の3人なのですが、先日発行したvol.3からは多塩卵が加わり、次号のvol.4ではゲスト寄稿者としてさらに2名ほど増える予定です。

こうして見ると徐々に規模が拡大しているように見えますし、実際、巻を追うごとに掲載作品も良くなってはいるものの、本自体のデザインはいまだに素人まるだしで改良の余地があるのです。たとえば、表紙、目次、扉絵、奥付などと議論のポイントは枚挙にいとまがないわけですが、今回は作品のレイアウトの方針を話し合いました。

おおまかな流れとして、美意識を優先させる小説などの文学作品と、情報の伝達を優先する評論は目的が異なる以上、それぞれのレイアウトを考案した方が良いのではないかという前提がまず決まります。それを踏まえ、評論は情報を見開きで一瞥できた方が良いやら、小説と散文はvol.2で決めた1段組のレイアウトを基本線にした方が良いやらと、ほんの少し具体的な方針まで固まったわけです。

結局、本日の話し合いを踏まえて榊原が実作したものを、メンバー全員で調整するという結論に落ち着きました。実はこのリアルタイム編集、毎号なにかしらでやってる方法でして(表紙など)、おしゃれの欠片もないくせにミリ単位の調整にこだわり、容赦なくリテイクを突きつける我々にとっては効率が良いのです。

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ここまでは良いとして、読者にとって謎なのはおそらく「あいみょん」ではないでしょうか。

ご存知ない方に向けて簡単に説明しておきますと、あいみょんは1995年生まれのシンガーソングライターで、2015年に「貴方解剖純愛歌〜死ね〜」をインディーズデビューした後も作品のリリースを重ね、2017年には「君はロックを聞かない」でFM Q LEAGUE AWARD 2017を受賞するなど、順調にミュージシャンとして進化し続けています。若者を中心に支持を集めているとテレビで観ましたが、かくいう私も少し前から通勤中に曲を聴いたりMVを観たりしているひとりです。

あいみょん - Wikipedia

 

なぜに会議で彼女の話をしたかというと、若者向けの音楽をちかごろ聴いているらしい広報担当の竹宮が彼女を好みだと言っているのをtwitterで見て、彼と音楽の好みが一致するのはかなり珍しいものですから、嬉しくなって話題を振ったからです。まあ、実際に彼とした話はうろおぼえなので本記事では書きませんが(笑)、その代わりにあいみょんの魅力を私なりに書かせて頂きます。

上に貼り付けた「君はロックを聞かない」という曲は女子(「君」)への片想いを歌った曲です……と書けば、世に溢れる有象無象のラブソングと変わらないように見えますけども、この曲の真髄はふたりのこころの遠さを「ロック」という音楽ジャンルで表している点にこそあります。詩に物語は特になく、寂しそうな「君」を励まそうと自身の好きなロック音楽を聴かせるという一幕だけで構成されています。さりとても、彼女はどうやらロックが好きではないらしく、一見なんでもなさそうな嗜好の違いに語り手は気を揉みます。

君はロックなんか聴かないと思いながら

少しでも僕に近づいてほしくて

ロックなんか聴かないと思うけれども

僕はこんな歌であんな歌で 恋を乗り越えてきた

クラシック、演歌、ロック、ポップス、ヒップホップ、アニソンなどなど、音楽のジャンルはまさしく数えられないほどあり、本人の気質や、家庭環境、あるいは周囲の人間などによりどれを好むか変わります。

とりわけ、情報の取捨選択が個人にゆだねられている現在において、好きでもなければ興味もないジャンルの曲をみずから聴くひとは少ないでしょう。たかが好みの違いと侮るなかれ、たったそれだけの違いが深い断絶を生みかねないのです。

ところで、本曲の主要モチーフである「ロック」そのものはどのように表現されているのでしょう。

「埃まみれ ドーナツ盤には あの日の夢が踊る」とあるように、あくまで古さや在りし日の象徴として描かれています。2017年にはヒップホップ/R&Bがロックの売り上げを越えましたし、2005年に発表されたポルノグラフィティの「プッシュプレイ」という曲で「かつてロックが発明された時代 混沌とした世界が敵で 勝負の見えてきた現代は 立ちはだかる壁も探せない」と歌われているように、革新や新機軸の象徴としてのロックは終わっていると認識されてもいるので、過去の遺物として見做すのはきっと正しいのだと思います。そのうえで、「(君は)ロックなんか聴かないと思うけれども」などと逆説を多用してロックへの愛着を匂わせるのですが、気になる彼女が同意を得られないのを承知でロックへの愛情を歌うさまは、好意を素直にぶつけるラブソングというよりも、甲乙つけがたいふたつの想いを秤にかけて葛藤しているように見え、胸が締め付けられる気分です。

 

史上初!!2017年はヒップホップ/R&Bが、ロックより売れた!コーチェラのヘッドライナーからロック枠が消えた理由か?!|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

 

「君はロックを聞かない」のMVがあえてひとむかし前の機材で撮影されていたり、80年代から90年代にかけての流行語をふんだんに取り入れた「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌」を発表したりしているので、過去に対する意識や愛着がそもそも強いアーティストだと言えるのかもしれません。もしくは、ここ2〜3年の間にインスタントカメラが若者に流行っているように、世紀末の文化と向き合う時期が丁度いまなのかもしれない、とも。

 

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