抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

日本語ヒップホップ - 不可思議/wonderboy

文=寝惚なまこ

 

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 滾々と湧き出る無力感の源泉は交わりのある人々の眼差しではなく鏡越しの充血した両眼にこそあると気付いたのは数年前のこと。文芸創作にうつつを抜かし、履修した講義を悉くサボって喫茶店に籠りラップトップと睨み合う日々を過ごしていた大学三年生の頃、週に二日のアルバイト以外には束縛する何物も無く、お天道様に背を向け落日と共に布団から這い出る私は、日陰者の名をほしいままにする青白い青年だった。昼夜逆転してはいても肉体は陽光の残り香を忘れられず、日の出を待って床に就くころには視神経が引き絞られるような疼痛が頭を離れない。日々を繰る手の早まるのに反して内的な時間は麺棒で伸ばしたように起伏に乏しく、嵩を増してゆく無力感の累積だけが月日の移ろいを映じていた。当時、耐えがたいカーテン越しの薄明のなかiPhoneでひたすら流し続けたのが不可思議/wonderboy というラッパーのアルバムだ。

 

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儚く揺れる命の泉で沈みながら息を吸いぎりぎりで気づいた 

死ぬために生きているわけないじゃん 死後の世界には興味がない 

それでも毎朝消え入るほどにつらいのは一体いつ以来だろう 

静かに告白しづらい悩みをネットじゃなくて暗闇に問うた 

途端に吸い込まれていく言葉の虚しさよ ああなんと無力 

進んだと思ったのに戻っている双六 先を見る目はいまだ鋭く

——「火の鳥

 

 不可思議/wonderboy は一般にはポエトリーラッパーと呼ばれている。近頃勢いづいているラップブームの到来する少し前、2009年~2011年の間ラッパーとして活動していた彼の楽曲は、聞き心地や発声及び発音のカッコよさよりもストーリーテリングの効果を重視した半ば語りのような歌い方が特徴だ。素人目にはリリックに表れているイメージの構成力とライム(韻)の配置に研鑽のあとが窺える。また感情の振幅と発声の起伏を同調させる歌唱法はライムを強調するというよりは歌詞のメッセージに耳を傾けさせるためのものらしく、受容者のリアクションも「普通の人間の苦悩」を歌い上げる彼への共感を示すものが多い。交通事故のために24歳で夭折した彼の人生に物語性を見出す人々も決して少なくなく、ままならない人の世に対するささやかな抵抗の象徴として流通している側面もあるようだ。

 

 運命に翻弄される普通の人々の多くがそうであるように、その苦悩の代弁者たる不可思議/wonderboyもまた強靭な精神を備えていたとは言いにくい。Hip-Hopシーンの天辺を目指して詞を書き続け、人並み外れて巧いわけでもないラップという表現に魅入られてしまった彼には一般的な夢追い人としての苦悩がある。内的騒擾に追い詰められた人が攻撃的になってしまうというのは度々起こりうることのように思われるけれど、その点、不可思議/wonderboyは直截な苦悩の表現やユーモラスな節回しの中でその過謬に陥ることはない。無暗に攻撃的なリリックを書いたりもするけれど、それも心からの述懐というよりはユーモアの範囲内にとどまっている。弱さを外部に転嫁することなくあくまで自嘲的なスタンスで夢と無力とに向き合い続ける気力の源泉は、絶望の深さにこそあったのではないかと私は思う。他人への攻撃が主観的世界における力関係の転覆を狙った心理的な補償作用だとして、そのような誤魔化しが付け入る隙も無いほど透徹した絶望感に覆い包まれている人間にとっては、自身を崩壊させより良い形に再構築する恒久的な苦役を踏破せずに安寧は望むべくもない。攻撃による気晴らしも、あらゆる虚飾も用をなさない。底なしの無力感があったからこそ不可思議/wonderboy はラップやポエトリーリーディングに向き合い続けることを余儀なくされているように見える。

 

 また彼の絶望感は言葉という表現体系の制約にも根があるのだろう。言葉そのものを祝福する歌曲「もしもこの世に言葉が無ければ」の歌詞には「ですから僕はこうしてここで / 言葉などという拙いツールで / つまり塩素まみれの汚いプールで溺れてみせましょう」とあり、言葉とそれが持つ限界との板挟みの中に自身の仕事を見出している。

 

 彼の生涯を貫いた無力感は複数の楽曲において見出される詩情の一要素だろう。これは作詞や歌唱の動力であると同時にもっとも深刻な痛点に他ならないのだろうけれど、この無力感が一つの閾値を越えたとき、表現は自身を研磨しつづける強硬さから一転して神前に懇願するような明け透けなものになる。「風よ吹け」がその分かりやすい例だ。

 

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二十三歳で未だに実家 当然湧かない生活の実感

踏み出せない弱さは飛べない鳥 囲まれる透明の見えない檻

止まらない咳 不安と焦り 何もできずまた床に臥せり

リリックは書けどもトラックは無し 今ここに見る売れないラッパーの限界

——「風よ吹け」

 

 現実的な描写とイメージとの交差によって展開されるリリックには袋小路に陥ったような抜き差しならない焦燥の披瀝がある。生活に疲弊する彼に打開策は無い。技巧を凝らしたリリックも、それを評価するトラックメイカー無しには楽曲として日の目を見ることはないのだから。肉体、精神、社会生活と多面的な責め苦に耐えるうちに累積した無力感は、どん詰まりにいる彼に祈らせる。それはライムとストーリーテリング、そして生活に宿る詩情を、あくまで作詞の技巧によって一つのラップに落とし込むという彼が背負った思想の、現実に対する屈従の証のように映る。干ばつに喘ぐ農耕民族が雨乞いをするように、不可思議/wonderboy は自らの無力を認めることで、技巧によって築き上げた自らの領分を明け渡すことで、音源製作と生活とに新しい展開を呼び寄せようとしたのかもしれない。

 

風よ吹け 風よ吹け 風よ 黙する都会に船を出せ 

夜更けは近いがそれも構わない 暗闇よ俺を連れていけ

風よ吹け 風よ吹け 風よ 高ぶる感情の帆を拡げ

地図無き人生の航海の舵を取りながら後にする港

——「風よ吹け」

 

 技巧的なリリックから垣間見える研鑽の姿勢に相反するような受動性がここでは開陳されている。腕頼みから神頼みへ。自らの美意識に照らし合わせ、より良い作品を独り作り続ける営みには挫折の感覚が付き纏い、心身をひどくすり減らす。叶わぬ夢を放逐したり、無力を忘却し開き直ったり、自ら儚くなったりと、屈従の帰結するさきは様々だが、それが彼の場合は祈祷だった。無力な人間に要請される努力が一種の自己否定だとして、後天的に獲得された努力がまたもや見捨てられたとき、二重の自己否定を経て祈祷という新たな営為が萌芽するのだろう。合目的的な変化を進歩と呼ぶのであれば不可思議/wonderboyのこの展開も進歩に他ならないはずだ。しかし同時に、いかな進歩によっても転覆しえないというのが絶望の絶望たるゆえんである。努力を重ねても祈りの境地に至っても払拭しえない無力感には絶望の真正さ、透徹性が垣間見える。ところがその真正さに反して、幸福を感じさせる楽曲も彼はいくつか制作している。

 

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未知との遭遇」「雨降りの金曜」「銀河鉄道の夜」などの作品において、彼の声は安寧のうちにあるような妙な甘やかさを帯び、リリックにもささやかな幸福の表現が見られる。しかし私はそれを素直に喜べない。彼は何も成就してはいない。にも拘らず視界のすべてを覆っていた絶望感が部分的にでも払拭されていく様は、理想と現実の二項対立の消失という一つの敗北の兆しのように見えるからだ。

 

 私たちはそれぞれ大なり小なり理想と呼ぶべき世界の範型を心のうちに持っていて、現実との偏差をよすがにより良い世界を在らしめようと奮闘する。その偏差、現実との隔たりこそが絶望感の端緒を成すものであり、だから絶望感の自然消滅は同時に抵抗の手立ての喪失をも意味する。彼が背負い、諸共に倒れた理想は世界から徐々に締め出されていく。そして私たちは失われた理想に共鳴することはできても、同じ理想を掲げて同じ現実に打ちひしがれることはできない。不可思議/wonderboyの詰め込みすぎて彼自身も正確に読み上げられないリリックや、頭韻や踏み外しを多用しながら様々な難度で構成された押韻や、壮大な世界観と日常的な艱難辛苦を交差させるストーリーテリングや、音源のどこか上っ面めいた声音や、打って変わって真に迫るライブパフォーマンスや、絶望感と幸福感の焦点のギャップから彼の理想を推し量ることはできても、それ以上ではない。だからこそ世界の在り様に疑義を呈する人々には責任が問われるのだろうと思う。個々人を媒介してしか在らしめられない理想を把持しつづける、そのために正しく絶望する責任だ。