抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

美意識のセクト・百合文化

文=寝惚なまこ

 

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 筋張ってツンとひるがえった白い花被、その中心部から伸びるしたたかな花柱と先端で昏く貪欲な威光を放つ花頭の雌蕊。種々あるユリ科の花々のメルクマールとも言うべき身の締まるような気位の高さと手招きするようなおどろおどろしい憎悪をのぞかせるアンバランスな美しさは、花弁の清らな明るさの白百合を眺めるときにより一層つまびらかに理解できる。根を同じくしながらも情趣のそれぞれ異なるために好対照をなす花被と雌蕊の関係性を自然界から救い上げ人界に移植する不遜が許されるのなら、互いに個として屹立しながら融和的な交際を展開してゆく女性同士の恋愛を描いたいわゆるガールズラブが百合の花の名で称されることにも、男性同士の恋愛の謂いである薔薇との対比以上の意味が見出されないだろうか。語源は諸説あるにせよ調和と反撥の止揚を経路にして一つの美意識を露わにする百合というジャンルに魅入られた私が数年前、大学受験のため単身降り立った東京で逢着したのが当時の百合界隈でカルト的な人気を博していた玄鉄絢の漫画作品『少女セクト』だった。

少女セクト』は2003年から二年間に亘って漫画雑誌『コミックメガストア』上で発表された作品であり、壮美かつ可愛らしい少女たちの描画や軽妙な台詞回しが特徴とされる。女子校と学生寮を舞台にして進行するこの物語は各話ごとに焦点の当たるカップルが変わる群像劇の形式を取りながら、学生寮に形成したハーレムの主で素行不良の常習犯である潘田思信と、彼女に目くじらを立てながら自らもモテ気質な風紀委員の内藤桃子という主人公二人の関係を描いてゆく。

 物語は桃子が同寮住まいの少女、紅緒と賭けをする場面から始まる。互いの載せたチップは「中華街の小籠包食い放題」「ケンタのチキン キールだけ五十ピース」で勝負の内容は「紅緒の友人・菖蒲の唇を奪う」こと。権謀術数をめぐらし善戦するも敗れた桃子は最終的にカップルとなった紅緒と菖蒲のキスシーンを見せつけられ第一話は幕を閉じる。それぞれの話は独立したものとして楽しめるラブコメディ風味になっているが、物語が進むにつれてますますハーレムは拡充の一途を辿り、女性教員と「お付き合い」を始める桃子と、彼女に「十二年越しの片思い」を続けながら寮生といちゃこら三昧の思信の関係性はコミカルな表現とは裏腹に複雑怪奇で無軌道にも思える情動の悲劇的な側面を露わにしていく。

概観からは際立った特徴も表れづらいこのシリーズの単行本は今も手許にあり、一巻の帯には「乙女の愛情争奪戦‼ 女の子らしさ全開であの娘のハートを狙いうち♡」と銘打たれているのを見るとなにやら少女同士のゆるふわな関係性を主題にしたポップな作品にも思えるし、だから初めて手に取ったときも正直な所あまり期待は寄せていなかったのだが、邂逅から数年たった今もなお度々読み返しては感慨にふけるよう強いる『少女セクト』の魅力はあらすじからは浮き彫りにしづらい作品の雰囲気のようなもの、一言で表せば美意識にある。

 絵柄は個々の漫画作品を唯一無二たらしめる要素のひとつだけれど、玄鉄絢の描く少女もまた特徴的だ。全体的に繊細な描線で、お餅のように柔らかな人物の輪郭、太陽黒点のように底知れない力強さを覗かせる瞳、一話ごとに変わる制服(!)の複雑さはさることながら、特に髪型の描写の細かさと再現性は鬼気迫るものがあり、嗜好の関数ではなく個人性の複写として形姿を深刻に捉える描画には人間存在に向き合い削り合うよう作者を駆動させる衝迫が見え隠れする。髪は女の命とはよく言ったもの。

また台詞回しにも面白味があり、本筋と一見無関係で諧謔に富む長台詞の応酬は人物のバックグラウンドを浮かび上がらせたり繊細な心情の覗き穴になったりと、人物の発する言葉は物語進行の立役者であるばかりではなく、作品世界そのものを明らかにする試錐の穿孔でもある。そこから見えるのは現実世界にも顕れるままならなさと、それに対峙することで世界の理想的な姿を照射する美意識。玄鉄絢という根を共有する二つの秩序は重なり合うことで互いの輪郭を明瞭にしていく。『少女セクト』は気の触れたような美意識のサンプルとして私を魅了しつづける。

 管見の範囲内ではあるが、多く物語作品はそれが展開するための力として論理を必要としている。それは人間関係上に生起する感情だったり、個人性を喪失させる集団心理だったり、一切の人々に宿命づけられた死であったり、万有引力などの自然法則だったり、様態はさまざまの因果律によって物語は一つの筋を辿ることができる。この論理は骨格であると同時に眼目でもあり、文学作品の批評文を紐解けば顕著なように、いわゆる現実世界の因果律をどれだけ正確に解きほぐしているかによって物語の価値が左右される場合も少なくない。これに背くように現実の論理よりも美意識による世界構築を選び取る猛者が多いのも、『少女セクト』を始めとした百合というジャンルの魅力の一つに挙げられるだろう。微に入り細に入り美意識がそのまま表現と結びつく漫画や小説などの媒体において、物語をも美意識によって支配することはとりもなおさず作品を徹頭徹尾みずからの美意識で統御することを意味する。審美眼のない割に細部にこだわりすぎる悪癖のある私のような人間でも、ぱっと見でビビッとくる作品を手に取れば大方アタリを引けるという甘美な花園の百合畑である。

 この美意識に依って立つ物語という百合ジャンルの特性は、百合という語の使われる以前、少女小説の大家である吉屋信子の短編集『花物語』にすでに認められる。流れるような調べを持つ音楽的な文体、人格の高貴さと形姿の優美さとを重ね合わせる筆致は源氏物語など古典文学への回帰を見せており、耽美に偏重する向きもあるがこれじたい美意識の明確な発露に思われる。全編に亘って美感に訴えようとする『花物語』のなかでも「ダーリヤ」に描かれた精神性の美しさに私はちょっと参っている。

 きょうだいの多く裕福ではない家に生まれ、女学校を諦め、慈善病院でみすぼらしく汚らしい患者たち相手に働く看護婦である主人公・道子はある晩、同じ小学校を卒業した豪家の令嬢・春恵が救急で手術を受ける場に立ち会った。道子の看病の甲斐もあって回復した春恵、その父からの、道子を自分の家に迎えて春恵と共に相当の教育を受けさせたいという申し出を、しかし道子は断ってしまう。看護婦として働き続けるという自らの使命を悟った道子は、栄華な未来への未練を振り切るようにして、春恵から送られた思い出深いダーリヤの花束を川に投げ捨てたのだった。

 以上が「ダーリヤ」の簡単なあらすじであるが、この短編を読了し終えたとき、歓喜に塗れた呪いがとぐろを巻いている感覚があった。栄転の道を自ら棒に振った道子のことを誰も理解できないからだ。家族も、春恵も、父も、慈善病院の院長も、道子の担当する患者も、そして将来の道子本人でさえも身を投げうつような決心を若さゆえの愚かさだと忌まわしい気分で回顧するだろう。自身が慈善病院に仕えることの誇りをいつか彼女は忘れ、後悔だけの日々が予定されている。そしてそれら全てを織り込み済みで、誰も幸福にならないことを承知の上だったからこそ道子はダーリヤを捨てたのだ。決心の正しさと、避けられない後悔とをはっきりと悟った道子は華やかな未来を象徴する花束を捨てることで自分の将来を決定づけた、換言すれば呪ったのである。

 

 私たちは日々老いてゆくし、倫理観や正義感や美意識を研鑽しつづけても、いつかそれら全てを老醜で拭い去って、若かった頃の確信を若気の至りで片付けて、いそいそと居心地の良い棺桶作りに勤しむ日がやってくる。しかしダーリヤを捨てた道子の身体は精神のありように関わらず看護婦として駆動しつづける。それは自らの可能性を捨てた者の祈りが持つ物質性がゆえ。若き看護婦の殉教は彼女を奉仕者の位置に縛り付ける。そしてそれは他でもない彼女自身が一瞬のうちに果たした決心のためなのだ。

美意識は時として現実のロジック以上に私たちの心臓を鷲掴みにして世界の有り様の是非を問いかける。現実を見ない蛮勇は往々にして盛者必衰の理の下敷きになり夢の跡を留めるに過ぎないけれど、世界としのぎを削る営為を否定する材料には残念ながら十分ではない。

 願わくはこれを読んでくれたあなたの手にも、世界の重さと釣り合うような百合の花束が届きますように。