抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

アニメソング - 大槻ケンヂと絶望少女たち「林檎もぎれビーム!」

文=竹宮猿麿

 

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ゼロ年代最後の年の2009年、筆者はまだ中学生で、社会や文化の雰囲気はどこか薄暗かった。当時の筆者は「将来はサラリーマンになりたい」と漠然と思っていた。サラリーマンは「ふつうの人間」だけが成れる職業だという感覚がなんとなくあったからだった。当時のクラスメイトや塾の友人たちも、サラリーマンになりたいと「しきりに」言っていた記憶があるので、そうした感覚を持っていたのはおそらく筆者だけではなかったのだろう。当時を思い返すと、ゼロ年代後半というのは「ふつうは素晴らしいことだ」という新しい価値観が出現しはじめた時期、そして、自分を「ふつう」以下の人間だと見做すような自己肯定感の低さが中高生のあいだに蔓延していた時期だったという印象がある。

当時の閉塞感は、明らかに中学生に悪影響を及ぼしまくっていた。筆者の記憶が正しければ、ゼロ年代後半は小学生から高校生までが結構頻繁に「死ね」という言葉を口にしていたし、アニメやライトノベルといったオタクカルチャーが本格的に盛り上がっていた影では、メンヘラや引きこもりの存在が若年層にかなり強く意識されつつあった。筆者と仲の良かったクラスメイトもいきなり学校に来なくなってしまった。彼の友人は、最後のほうは筆者しかいなかったはずだ。しかし、筆者にはどうすることもできなかった。クラス内での権力闘争に敗北し、いじめられ、転校していった隣のクラスの女子は筆者が放課後によく一緒にだべっていた友人のひとりだった。彼女はリストカットを繰り返していた。

 

そのように少し荒れ気味だったゼロ年代後半の雰囲気のなかで、連載され、アニメ化されていたのが「絶望先生」こと糸色望を主人公とする漫画『さよなら絶望先生』だった。

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アニメのほうをきちんと見たことがあるわけではないので、漫画のほうの知識だけで語らざるをえないが、『さよなら絶望先生』は、時事ネタやあるあるネタをよく扱う風刺性の強い作品である。そうした性質上、他の漫画よりも情報量が多い。基本的には一話完結型の作品であり、物語らしい物語があるわけではないため、そのあらすじについて詳しく述べる必要は特にないだろう。なのでざっくり言ってしまうと、『さよなら絶望先生』とは、絶望してはすぐ死のうとするコミカルな高校教師が癖の強い生徒たちとわちゃわちゃするという、ただそれだけの話である。

筆者が『さよなら絶望先生』のアニメの存在を知ったのは2009年のことだった。当時それはちょうど第三期を迎えていた。当時の筆者は、たとえばNHK衛星第2テレビジョンで放送された「ザ☆ネットスター!」(2008年4月~2010年2月)で東浩紀とやる夫を初めて知ったぐらいにはサブカルチャーに疎かった。だから、『絶望先生』第三期主題歌の「林檎もぎれビーム!」をメインで歌っている「サブカルの帝王」大槻ケンジのことも『絶望先生』を通して知った。オープニングの主題歌を歌う彼の歌唱はお世辞にも上手いものではなかったが、そのかわり、味があって、粗雑でありながらも魅力的であるように思われた。

しかし、当時において印象深かったのは、大槻ケンヂではなく、絶望少女たちのほうだった。

絶望少女たちとは「絶望先生」の生徒たちで、「絶望先生」なんかよりずっと主人公らしいぐらい、それぞれキャラ立ちしている。学校という舞台の主人公が教師ではなく生徒であるとかいう話をしているのではない。彼女たちは、それぞれ癖が強く、しかも割と理解できなさそうな変な内面を持っている。つまり、絶望少女たちは個性、それも他のキャラクターとの差異を超えた、自立した個性を持っているのだ。

絶望少女たちが互いに明確に異なる個性を持っているということは、アニメにおいては彼女たち個々の声の特徴によくあらわれていると思う。個性的なものが大量に共存しているシチュエーションが好きな筆者にとって、「林檎もぎれビーム!」のなかで、彼女たちの個性的な声が、それぞれの独自の響きを損なわれることなく、他の個性的な声と次々と組み合わされていくさま、全員の個性がひとつも蔑ろにされることなく平等に扱われているさまには非常にぐっと来るものがあった。

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しかし、そんなことよりも筆者を遥かに感動させたポイントがある。あなたはもうすでにオープニングのサビの部分をご覧になられただろうか。絶望少女たちが声を揃えて「林檎、もぎれ、ビーム」と歌っている部分だ。

当時の筆者は、自分の周りに強力な秩序がもたらされることを願い続けていた。自分の属する無秩序な学校社会に心を痛めていたからだったが、その一方、教室内の秩序が回復することはもうなく、秩序が回復したところで失われた人々が戻ってくるわけではないこともとうの昔に理解していた。そんな当時の筆者にとって、絶望少女たちの「林檎、もぎれ、ビーム」という合唱と、それと同時に画面に表示される彼女たちの手の映像は、一生手に入らないだろう理想的な世界の象徴、すなわち、「人々が個性を失うことなく秩序のなかで統合されている状態」の象徴に他ならなかった。歌詞に出てくる言葉を引用するなら、そうした世界はまさしく筆者の「パラダイス」だった。

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林檎もぎれビーム!」のサビでは、大槻ケンヂが「向こう側へ/絶望のわずかな」と歌ったあと、絶望少女たちがすかさず「こっちがわへ」と歌い、聞き手を誘惑する。それが素直な誘惑ではないことは、たとえば彼女たちが他の箇所で述べている「お仕事でやってるだけかもよ」「マニュアルではめてるだけかもよ」という冷笑的なセリフから明らかだ。しかし、だからこそ、聞き手は彼女たちのいる「向こう側」と距離を取り、「向こう側」を甘やかなファンタジーとして受け止め、彼女たちの誘惑を心地よい嘘と見做し、それに安心して身を委ねることができる。セイレーンはその歌声によって聞き手を引きつけ、聞き手の身を滅ぼしてしまうが、絶望少女たちは聞き手をクールに突き放してなにも滅ぼさない。彼女たちは、その歌声においてすべてを甘やかに放置する。