抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

アニメソング - 岡崎律子『For フルーツバスケット』『小さな祈り』

文=竹宮猿麿

 

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 アニメ版『フルーツバスケット』(2001年)の再放送をはじめて観たのは小学五年生の頃で、そのときにオープニングテーマとエンディングテーマを歌っていたのが今は亡き岡崎律子さんだった。

フルーツバスケット』に関しては、登場人物の多くが暗い過去や人格的な難点を抱えていたり、その背景には個人ではどうしようもない一族の呪いや家庭問題があったり、そもそも一族の呪いが「異性に抱きつく(もしくは抱きつかれる)と十二支のうちの特定の動物に変身してしまう」というなぜか闇の深い設定だったりと、温かみのあるタッチで描かれている割にはやけに終末的な雰囲気を感じさせるアニメだったという印象が強い。

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しかし最近になってふと、そんな印象のおおもとには、オープニングとエンディングに流れていた岡崎さんの、か細く、柔らかい、ささやくような歌声があることに気づいた。子供だった当時の筆者は彼女の曲に「なにかの終わり」を感じ取り、アニメを観終わるたびに後で正体不明の悲しさに襲われては訳も分からずに泣いていたものだったが、そうした神秘的な感覚も今はもう大半が失われてしまっていて、そのことを特に気にも留めなくなってすらいる。

原則として、失われたものを取り返せることはほとんどない。 実際に私達は岡崎さんを2004年に失ってから14年の歳月を経てもなお、彼女の歌声を黄泉の国から奪還できずにいる。もちろん、彼女の既存の音声からサンプリングすることを通して彼女をボーカロイドとしてこの世に復活させることはまったく不可能ではない。しかし、大半の人々はそうしたかたちでの復活はあまり歓迎しないのではないだろうか。

というのも、私達は彼女の取り返せない生を惜しんだうえで、その生の一部である歌声を惜しむからだ。 それぞれの存在は唯一であるからこそ、そのうちにおいて無限の広がりを持つのであり、その喪失はひとつの世界の消滅に他ならない。私達が失ったのは彼女の身体ではなく、岡崎律子と呼ばれた世界なのだと思う。

失われた世界は宇宙の外側を永遠にさまよう。どのような最新テクノロジーや思い込みも、そのような世界を途方もない孤独から救えないし、死に対する私達の先天的な無力感を癒やせない。ただ耐えることのみがゆるされており、その作業は古来から弔いと呼び習わされてきた。彼女の忘れがたみを聴くたび、会ったこともない彼女の存在を思い出し、心のどこかで彼女の不在を悼むことになる。そして彼女の歌声にかえって慰められながら、昔あった神秘的な感覚をわずかに知覚する。

 

そう、彼女の曲にはどこか死を予感させるところがある。

当時の筆者がそこから察知したのは、今から思えば「存在にも終わりがあるということ」の深刻さだったのではないか。このことは思いつきとして片付けられるほど案外無根拠ではない。というのも、彼女の歌詞には「生きているということ」やそのなかでの努力がよく歌われているからである。

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たとえば『For フルーツバスケット』は「心ごとすべてなげだせたなら/ここに生きてる意味が分かるよ/生まれおちた歓びを知る」と、『小さな祈り』は「たのしい夕げ さあ囲みましょう/今日の涙は ほら 明日の力にして」と歌っている。

一見するとやさしい気持ちを述べた「ありがちな」、つまりは社会に流通している定型文を使っているようではあるが、そのなかで深刻な認識をひそかに示しているところに岡崎さんの作詞の魅力がある。彼女の歌詞は生に対する強い肯定を表明する一方、現実のままならなさや生きていくことの難しさをニュアンスとしてつねに含んでいる。

ところで、そのような明るいメッセージと奥にある暗いニュアンスはすべて、無限であるはずの私達を矮小化する全事象の有限性を暗に指し示している。

彼女の歌詞においては、生を歓ぶこと、より細かく言えば他者に対する強い愛情や恋心、そして心に左右されることなく生きていくしなやかさがが全体いっぱいに湛えられており、ときには直接的に讃えられているが、それらは、存在の脆さ、他者の失われやすさや他者との距離感、心の克服しがたさに対する認識なしには出現しえない。

存在の有限性を志向する認識は、究極的には死をまなざしている。彼女自身がそのことを意識していたかどうかはともかく、歌詞上に浮かびあがる彼女の意味体系は、死の方向に対して振る舞っている。

 

ガンに侵された岡崎さんは晩年、病室にもキーボードを持ち込み、なにかに憑かれたかのように作曲していたというエピソードがある。あるとき、彼女の母親がそれを見かねたことがあったが、そのとき彼女は母親に対して「いいものを残しておきたいから頑張る」と言ったという。

先程の筆者の見解と岡崎さん御本人のエピソードをもし交差させるなら、「いいもの」ないし良い作品というのは、死自体に対しては無力であるものの、意味を構成してくれると言える。そして意味は人間を死の無意味さ(別の言い方をすれば、現実の根本的な不条理)から保護してくれる。

その点から言えば、意味とは保護膜であり、それを構成しようとする努力は死への抵抗ということになるのかもしれない。つまり、あたかも文明ないし都市が自然から城壁でみずからを守ると同時に区別するように、生もまた意味によってみずからを守ると同時に死から独立させるのである。

もし深刻な認識が、意味の外側には死に代表される無意味が広がっていることを知りながらも、生きているかぎりは意味を全力で構成していくしかないことを認識する認識なのだとしたら、彼女の他者に対する愛情は、そうした苛烈な認識をあらわにすることなく、むしろ少女漫画的な雰囲気でやさしく包み、誰でも心地よく聴ける安全な音楽として提供するところにあったのだと思う。

 

今更ではあるものの、とりあえず岡崎さんのプロフィールをざっと紹介しておきたい。

彼女は1959年12月29日に「軍艦島」の名で知られる長崎県端島で生まれ、高校時代にはバンド活動を行っていた。1985年からはCMや他のアーティストに曲を提供するようになる。そして『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1991年)や『ラブひな』(2000年)等に曲を提供するなどアニメ界隈でキャリアを着実に積み上げていったが、日向めぐみmeg rock)さんと2002年にメロキュアを結成してこれからという時期にスキルス性胃癌が発覚し、2004年5月5日に44歳で死去した。

以上はWikipediaの記事の要約だが、ネット上の他の記事でも大抵はこの程度までのことしか書かれていない。これが私達が彼女について知りえるおおよその限界なのである。

彼女がインタビューに答えることはもうありえないし、誰かが彼女との思い出を公で語るシチュエーションがこれから後にあるとも思えない。つまり、彼女のことをより詳しく知る機会はもうない。これが死んでいるということ、さらに言えば情報化社会において死んでいるということなのだろうか。彼女のサイトも当時から更新を停止したままで、今日では古めかしくなったデザインがどこか物悲しさを感じさせる。

もし死の彼方にあの世が本当にあるとすれば、だが、ひとりのファンとして彼女の冥福を、できれば『小さな祈り』に倣い、彼女の彼岸での一日一日の終わりが素敵なものであることを祈りたい。