抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

琉球文学 - 島尾敏雄『琉球文学論』第1章

文=秋津燈太郎

 

琉球文学についての講演を文字に起こした『琉球文学論』は、島尾氏の論理の曖昧さに加えて書き言葉としての文体が粗雑なこともあり、とにもかくにも読みづらい。とはいえ、彼自身の主張はさておいて、書かれている内容の資料的価値はたしかにあるし、これから琉球文学の読解に取り組もうとしている者の足がかりとしても優秀なので、簡潔明瞭に論旨をまとめてみようと思った次第である。

ご意見・ご指摘などあれば遠慮なくお願いいたします。

 

 

・第一章 なぜ、琉球文学か

1.

琉球方言で書かれた文学を琉球文学と本書では呼ぶ。

琉球語という独立した言語ではなく、あくまで日本語の一方言という表現にした理由は、日本語も琉球の言語も起源をおなじにしている可能性があるという説に因る。(とはいえ、太平洋戦争後に移住した島尾氏の感覚では、本土とはことなる様子があるのは否めないようだ。)

 

2.

1543年のポルトガル船の北上や日本船の南下以前には、東南アジアの貿易の橋渡しとしての役割を担っていたと今でこそ周知であるものの、歴史的事実を裏付ける資料は長いあいだ存在しなかった。

その資料が発見されたのは昭和(1931年)になってからである。

貿易に関する資料(琉球と取引国それぞれの遣使の身分証明や貿易の意向)をまとめた『歴代宝案』が発見された久米村は、外交に必要な技術や知識を琉球王国に根付かせるべく、1372年以降に明の太祖が遣わせた移住者たちの住む地域であった(※1)。そのような事情でよそより技術や知識に長けたひとの多い土地であるためか、三司官の蔡温をはじめとする為政者を多く輩出してきたようで、おそらく、『歴代宝案』はそこの秘匿文書として代々丁重に受け継がれてきたので、発見が遅れたのであろう。

 

3.

辿ってきた歴史が地域によって異なる以上、奄美沖縄本島、先島を一緒くたにするのは問題がある。たとえば、奄美薩摩藩琉球入り(1609年)に際して割譲されているが、沖縄本島の治世はそれまで同様に琉球王府によりなされてきた。つまり、本土からの影響に差がある以上は、文化面も多少なりとも異なる展開をしているはずである。本土をふくめた各々の島の差異を考察するべきであろう。(島尾氏は後に各島ごとの琉球文学のちがいについて実際に述べている)

 

1:彼らは「閩人三十六性」とも呼ばれ、造船、船舶修理、航海術、通訳、外交文書作成、商取引方法についての技術と知識を蓄えていた。また、久米村は琉球王府の配下ではなく相対的に自立していたようで、久米村総役と呼ばれる代表の下に複数の役職を擁するような自治色のつよい組織だった。(高良倉吉琉球王国』より)