抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

あかしの裏返し

文=榊原けい

 

目の前のだれかが、あなたに作品の感想を話す。

あなたは、その人の口ぶりに、あるエピソードにいたく共感していることや、奇妙な言い回しを繰りかえし用いる癖や、特定の小道具にたびたび言及する執着といったものを発見する。するとどうだろう。こういうとき、相手も一人の人間で、これまで生きてきた道のりでいろいろなものに出会い乗り越えてきたのだろうという、ごく当たり前のことを再発見させられるのではないだろうか。そのような痕跡に触れたとき、僕らはそれらのあかしが暗示するその人の内面を垣間見ることになる。

作品にたいする感想や批評を言い交わすとき、単なる発言の内容だけではなく、語の選び方や対象の扱い方から対象との距離の取り方までをふくむ、語り手の手つきに相当する部分もまた、僕たちの間をわたるようだ。

古くから筆跡やふるまいには人柄が現れると言われるけれど、語り手の手つきを裏返しにしたときにも現れるものをお互いに読み合うこともまた、それらの云いに通ずることなのだろう。そして、そうした痕跡のやりとりは積み重なるにつれて二人の間だけで通じる暗号にまで様相を変えてゆき、やがて僕たちはそのような暗号を共有していることを親密さのあかしとして胸に秘める。

せわしない社会生活の陰で、人々はそのようにして心という観測不可能な領域を手探りにたしかめ合うようにして知っていく……感想を伝え合うときに行われるそういったやり取りは、そんなプライベートな営みの一種ではないだろうか。

そんなふうに鑑賞体験が人と人をつないでくれるのなら、それは素晴らしいことだと思うのだ。

僕個人の体験ではこんなエピソードがある。高校生の頃、父が僕を映画館へ連れて行ってくれたときのことだ。

当時の僕から見て、我が家の人間関係は緊張状態にあった。家族どうしが対立しあい、事務連絡いがいの会話はほとんどなく、怒鳴り合いの喧嘩が頻発し、子どもを部屋に押し込めて何時間も「しつけ」するという状態が何年も続いていて、家族はバラバラだったのだ。

当然のことだけど、人は巡り合う人にしか巡り合わないのだから、僕は和やかな家庭を願っていた。長い時間が解決するまで、喧嘩した人々の仲裁やフォローをし、自分は争わずにされるがままになる立場を取ると決めて暮らしていた。それが二人で外出するという。

当時の僕は父にたいして感謝や尊敬の念を抱くのと同時に、恐れ、憎んでもいた。弱い心は自分の非を認めなかったり、逃げたり、隠したりといった悪行に人を誘惑する。当時の僕は、自分が家族に歩み寄る勇気を持てないでいることを恐怖のせいに押し付けるあまり、父に怯えたり憎んだりしてしまっていた。映画館へ向かう車の中で、こわばりすぎて震える手足を抑え付けながらミラー越しに父の顔色を窺っていた。

映画館を出てから、父は僕に「どうだった?」と感想を求めた。

僕は言葉に詰まり、正解を探したが、それは見つからなかった。恐怖や憎しみへの誘惑や、親しくしたい気持ちがせめぎ合う複雑な状況だったのだ。自分と相手を注意深く見ながら言葉を並べようとし、それはやがてあいまいになり、途切れとぎれになり、ついには何も言えなくなってしまった。居たたまれなくなって、別のことに話を逸らした。

良好な関係を望むいじょう、やりすごすためのウソの感想を僕は自分に許せなかったし、かといって恐れていた父に感想と切り離せない自分の内面をさらけ出すことも恐れて、できなかったのだ。そしてそのために、正解ではないとわかりながら僕は父の厚意をふいにしたのだ。

そのとき感じた居たたまれなさは、父の善意に自分の未熟さのせいで応えられない心苦しさでもあるのだろう。映画の感想を言うという、ただそれだけのことが、背景や状況によってはとても難しくなるのだと気付かされたエピソードだ。

映画にしても、小説にしても、鑑賞するさいに僕らはみな自分の精神の内側で作品と交わりあう。劇場がスクリーンと観客の一対一の暗闇を作り出すように、本が読む者に対してだけ開かれるように、鑑賞というのは本来とても個人的な行為なのではないか。作中で重要な位置づけにあるわけではない小道具や仕草がなぜか強く印象に残ったり、隣で観ているともだちは笑っているのに自分一人だけ泣いていたりするように、たとえ似通った感想を抱くとしても一つとして同じ鑑賞体験はなく、その違いの部分が口ぶりや語り口に鑑賞した人間のあかしとなって浮かび上がってくる。出会う人としか出会えないからこそ、僕はそういうものを大切に思う。

未だに解決の見通しが立たない家族とのディスコミュニケーションや、友人になれたかもしれなかった人々といつの間にか疎遠になっていたことなどを想うたび、そうしたものごとを書き残したいという未練に似た欲求は僕の中で高まった。

いろいろな物事が人びとの関係を阻むのだから、せめて親密な人とのワンシーンをこっそりと写真や動画に収めようとするように、こうして書きとどめるのもよいと思う。

いまお伝えしたような考えに基づいて書かれるこの一連の散文集は、僕の視点から映画と自分を含むさいきんの若者との関係を眺めて書かれるものになる。このあかしを巡るいとなみの記録が、読んでくださるあなたにとって、何かの役に立てば幸いだ。