抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

表紙後記

 

11月の文学フリマ東京までの活動としてブログを運営しようという話になって、最初の記事はサークル主宰の僕、榊原けいが担当することになった。

このブログでの記念すべき第一回となる今回は、僕たちが作った『グラティア』第一集の表紙について、制作の工程やその間に起きた出来事を書いてみようと思う。

 

 

 

『グラティア』第一集の表紙画像が「抒情歌」のLINEグループにアップされたとき、僕は「これはえらいことになったな」と思った。秋津燈太郎さんが作ってくれたその画像がめちゃくちゃかっこよかったからだ。

これが表紙となって一冊の本ができるのだということ以上に大きな感慨をおぼえたのは、この画像が出来上がるまでの間にあったいろいろなアクシデントとそれにまつわる労苦のためだ。

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同人誌の制作を決定したのは2016年の暮れごろのこと。

まず取り掛かったのはメンバー集めだ。集まったのは僕、竹宮猿麿、秋津燈太郎、ともう一人の四人。最後の一人は参加を前向きに検討してくださったのだが、お仕事や創作との関係などのもろもろの都合のために断られてしまった。光栄なことに、いつかまた機会があったら寄稿したいと言ってくださった。

 

竹宮猿麿氏は石川県白山市が開催している哲学・思想にまつわる論文の賞である暁烏敏賞の最終選考に残った評論の名手であり、秋津燈太郎氏は籠城恒の名前でインターネット上に作品を投稿したり言わずと知れた新潮新人賞の一次選考を突破したりといった実績の持ちぬしで、両名とも信頼できる腕前の書き手だ。

この二人に僕を加えた三人の創設メンバーはもともと交流があって、日ごろから喫茶店に集まっては灰の山を築きつつおすすめの文学や映画や音楽といった作品を紹介しあったり、各自の作品を見せ合って意見交換をしたりする間柄だったので、自分たちの作品で同人誌を作ってみたいよねという話は数年前から自然に持ち上がっていた。今回のことはいい機会だった。

 

はじめての同人誌制作だったから、誌の名前を決めたり、同人誌を作るための工程を洗い出したりと、やらなければならないことは多くあり、やや厳しいスケジュールになることが予想された。

月に二、三回ほどのペースで会議を開いてサークルのコンセプトや名前、段取りの整理と分担といった事柄を議題に話し合うことになる。原稿の質のため、執筆だけに集中できる期間を作りたく、そのためには原稿の後でもできる作業と早めに片付けられる作業とを明らかにする必要があったからだ。

 

そうした話し合いの結果、表紙は原稿の締め切りのあとに分担してやろうという話になった。秋津さんも竹宮さんも少し変わった人だから、正直なところ僕はうまく話をまとめられるのかと身構えていたのだけど、案外スムーズに打ち合わせができたし、うまくいくんじゃないかなと思った。このような会議を何度か重ねて、三月末の締め切りまでは原稿に集中できるという状態に持って行くことが出来たのだが、平穏な執筆期間を挟んで、さいごのさいご、締め切りの直前に立て続けに事件に見舞われた。

 

第一のアクシデントは僕に襲いかかった。

三月中旬のある深夜、歯の激痛によって原稿どころではなくなった僕は、慌てて歯医者の検診を受けた。レントゲンの結果によると、全部で28本ある歯のうちの16本、つまり半分以上、が虫歯になっており、うち何本かはすでに神経までむしばまれているという。痛みは不規則にやってきて、体力を消耗するだけでなく集中力も奪うため、作品の進捗にとってこれは致命的だった。

当然のことながら、原稿が完成しなければ同人誌を発行できなくなってしまうので、日ごろの創作とは違い、完成するかどうかの責任はひじょうに大きい。鋭く長い痛みのためにロキソニンを服用しながら気合いで原稿を進めていたところへ、またおそろしい報せが舞い込んだ。

 

第二のアクシデントに見舞われたのは秋津さんだ。風呂の追い炊きに向かったさい、上着のポケットから原稿のデータが入ったスマートフォンが勢いよく飛び出し、水没してしまったという。秋津さんはふだん会社勤めをしており、スマートフォンでも執筆を行っている。このアクシデントによって、書き途中でバックアップのないエッセイが一篇消し飛んでしまったのだった。

このいたたまれない出来事をうけて、原稿の締め切りを伸ばすことが決定した。こういったアクシデントを見越して余裕のあるスケジュールを計画していたのだが、抒情歌のメンバーたちはこうした事件に立て続けに襲われ、驚くべきことになんと5回も締め切りを延長することになったのだった。

 

四月某日の夜、そうした事態をうけて表紙の制作についての緊急の会議がSkype上で開かれた。

 あたりまえのことながら、同人誌の制作においては印刷会社に委託する以外の工程をすべて自分たちで行わなければならないため、表紙も自分たちで作らなければならない。「抒情歌」のメンバーは絵画や写真を専門にしているわけではないので、上手いアイデアが必要だった。

採用されたのは、猿の絵とカニエ・ウエストが大好きな竹宮猿麿が推しまくった形式で、それはカニエの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』のジャケットをまねて単色の背景に日本画を貼ったものにしようというものだ。作り方じたいはかんたんだが、よい表紙にするためには元画像の加工や配色の妙などに造り手の批評眼が問われる。シンプルでチャレンジング。全会一致で決まりだった。

いくつかあった日本画の候補から鳥獣戯画が選ばれ、言い出しっぺの竹宮さんにプロトタイプを作ってもらうこととなりその日の会議はお開きとなる。これで事態は一件落着かに思われた。

 

 

後日開かれた会議に現れた竹宮さんは席に着くと、伸びた髪をかき上げ、無精ひげをなで、(彼が禁煙するまえに愛飲していた)ガラムに火をつけるなり、普段にも増してハイテンションな語り口で僕と秋津さんにラウシェンバーグのコラージュ作品を紹介した。秋津さんは水没事故を機に新調した大きくてぴかぴかのスマートフォンで画像検索をしてラウシェンバーグの作品を見、瞳孔を広げる。おおいに話が弾む。(若干の余談になるけれど、こうやって丁寧に温められた場は、シャイな竹宮さんなりの照れ隠しと秋津さんの深い思いやりとの相互作用が発生させる空気のようなもので、僕はこのメンバーのそういうところをとても気に入っているのだ。)

そしてそうしたコラージュの話を枕に彼が提出したのがこの画像だ。

 

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僕や秋津さんは割とまんぞくげだったのだけど、ここで雲行きはふたたび怪しくなる。

この時点で三人ともの原稿が完成に至っておらず、日付は印刷会社の締め切りまで二週間を切っている。にもかかわらず、このデータの作者である竹宮氏本人が出来に満足できないらしく、自分の作った画像を下げ、物腰も思い切り下げて、秋津さんお願いしますよォ!という勢いで仕事を投げたのだ。

先述のとおりに自分の原稿データが事故のために吹き飛んでしまったという災難に遭っていたのみならず、引越などの環境の変化や会社での忙殺のためにやや憔悴気味だった秋津さんは、変態の勢いと入稿締め切りに押し切られてしまい、うなずいたのだった。

真ん中にはめ込む画像には先のSkype会議で案にのぼっていた狩野尚信の『猿猴図屏風』が選ばれ、その日はそれで解散となる。(もろもろのデータ作業が終わってから告白されたことには、これら一連の作業に苦しめられた秋津さんは現在、血涙のエッセイを書き進めているらしい。じきにこのサイトに公開されるであろうから、お楽しみに。)

こうして、『グラティア』第一集の命運は秋津燈太郎に預けられることになる。

 

 

……そんなこんなで場面は冒頭の回想に戻ってくる。

こういった経緯で出来上がった表紙を改めて振り返ると、この表紙は僕らの創作の在り方を暗に示しているようにも思えてくる。

抒情歌の作者陣は海外、国内、過去と時代や場所を問わないさまざまな作品や、サンプリングやコラージュといった現代的なテクノロジーを参考にさせてもらったりして、いろいろの趣向をこらしながら作品を高めたり届けやすくしたりしている。

この表紙が「海外のCDジャケット」のオマージュに、「江戸時代の屏風画」を、「サンプリング」するという造りになっていることは、そういった姿勢の換喩にも読めるのだ。

 いろいろとうまく行かないことはあったけれども、このような読みができるものを誌の看板である表紙に掲げられたことを僕はうれしく思っている、という裏話である。