抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

ヒップホップ音楽 - PHARAOH『ДИКО, НАПРИМЕР』

文=榊原けい

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 以前の記事

「検索ボックスに「ロシア ヒップホップ」や「russian hiphop」などと打ち込んで色々な曲を聴いてみました。
 とりあえず、聴いたものの中でいいなと思ったものをごく簡単に、何回かに分けて紹介していこうと思います。」

 と書きましたので、その続きです。

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 今回ご紹介するのは、モスクワを拠点に活動するDead Dynastyというクルーのラッパー、PHARAOHです。

 PHARAOHは1996年モスクワ生まれの二十二歳。特に若い人たちから人気を得ています。

 影響を受けたラッパーとしてSnoop DogやEminem50 cent などを挙げているほか、クラウド・ラップ(ASAP Rockyなどがその好例として知られています)というスタイルをロシアのシーンに持ち込もうとした人物としても知られているようです。

 

 PHARAOHのプロフィール等の情報は他サイトの紹介が詳しいので、よく知りたい方のために以下と記事の最後にリンクを貼ります。

avyss-magazine.com

 

 今回取り上げる『ДИКО, НАПРИМЕР』という曲は、スネア音の連続する不気味なトラップ調に奥行きのある音を重ねたトラック、若者の放蕩のような光景を描いたビデオ、押し殺した低い声のラップによって、狂気と人工的な落ち着き、そして不穏な陰鬱さを印象させる魅力的な曲です。 

 トラップ調のトラックにドラッグや性関係の事柄についてのラップを載せるスタイルはいまどきの若いラップスターらしい傾向ですが、PHARAOHの独自性はもう少し細かいところにあります。

 その独自性の説明に入る前に、そもそもトラップってなんだ?という方もいるかと思われますので、簡単な説明と代表例を上げて把握しやすくしてみます。

 

 トラップとは、元はヒップホップ音楽の一ジャンルで、非常にざっくり言うと、重低音を強調したビートに特有の連続したスネアの音などが入っているようなものを指します。
 細かい定義や歴史は本題から逸れるので深堀せず、ここでは言及しません。

 イメージしやすいように例を挙げると、
アメリカではKendrick LamarやFutureなど、
日本ではKOHHなどがトラップにおいて代表的と言われています。

 

Kendrick Lamar - HUMBLE. - YouTube

 

 ざっくりしたイメージとマップが出来たところで、本題のPHARAOHの特異性に戻ります。

 『ДИКО, НАПРИМЕР』などに見られるように、彼のラップおよびMVには、奥行きのある音が響くトラック、針葉樹林の深い森や猟犬を映したビデオ、押し殺した低い声のラップといった特色があります。

 こうした特色は、不気味なトラックとスキャットやダンスによって不良やヤク中の不気味さを表現するようなある種の典型的なトラップとは一味違います。
 抑制を効かせた表現を織り交ぜることで狂気と人工的な落ち着き、不穏な陰鬱さを演出する、という独自のスタイルを築いているラッパーと言えるかと思います。

 

 

 ここから少し派生して、MVの風景から楽しむヒップホップについて少し書こうかと思います。

 画像や映像の技術がひろく浸透して、映画やゲームの中で見た「初めて来たはずなのに見覚えのある景色」と出会うことが珍しくなってきた現代は、見方を変えれば「自分から好きな年代・好きな町のデータを探せるようになった時代」とも言えるでしょう。

 古い日本映画などを見たときなどに、半世紀前の東京の景色にハッとすることなどがあります。

 それは、今はない街並みや風景が在ったことの証(としての記録や作品)が、なんというか、壮大なものだと認識する瞬間です。

 

 ヒップホップ音楽のミュージックビデオの流れの一つに(特にストリートやギャングスタのラッパーと言われるような人たちの流れとして)、自分たちのリアルの風景を背にラップするというものがあります。

 これは曲のプロモーションとして自分たちのノリや楽しみ方を発信すると同時に、自分たちのフッド(地元、活動拠点)を記録し発信する、という姿勢だと私は思います。

 わかりやすい例の一つが、宅地の劣化によって廃屋化・犯罪率の上昇などが進んでいた町ブロンクス区出身のラッパーKRS-ONEなどです。

 KRS-ONEのMVには、ブロンクス区のストリートの一風景を映しているものがいくつもあります。

 

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 ブロンクス区は第一次世界大戦後に宅地開発ブームが進み住居が増えたものの、犯罪率の高さから人々が流出し、1970~80年代には建物の劣化した貧民街となっていたことで有名な町です。(こうした土地からヒップホップカルチャーが始まったと言われています。このことについては本題から少しずれるので割愛しますが、現在では再開発が進み、住宅地区として回復してきているそうです。)

 当時の映像は資料としては残っていますが、そこに住んでいた人たちのノリが部分的にでもよく現れているのだろうなと思いながらMVを見ると、見ごたえが変わってきます。

 

 今回の記事で紹介しているPHARAOHはストリート育ちというわけではないので、MVにフッドのノリを見出すことは難しいかもしれませんが、針葉樹の深い森を通る一本道を高級車が進んでゆくカットなど、風土を感じられる部分はいくつもあり、そういった部分がどことなく曲の寒冷地的なノリの表現に一味加えているようにも思われます。

 

 クルーやクラブがInstagramYouTubeのアカウントから写真や動画を発信することも決して稀ではない現在、「景色やノリの記録を見る」という意味でも、国名とジャンルを検索フォームに打ち込んでビデオを比較してみるというのもヒップホップ音楽の楽しみ方の一つなのかもしれません。ブロンクス区のMV、東京下町のMV、ネオン街のMV、ロシアのMVといった風に。

 

MSC / 新宿2015 - YouTube

 

 

 ごく簡単な紹介をさせていただきましたが、最後にPHARAOHのほかの曲や詳しい情報のあるサイト・ブログへのリンクを貼って今回はおわりとしたいと思います。

  ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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ddxd.hatenablog.com

 

ja.fehrplay.com

 

 

【連載:ゲームと選択肢】第一回 『WILL-素晴らしき世界-』

文=一条めぐる(@ichijo_meguru

 

はじめまして、一条めぐると申します。
普段は別の同人サークル『あるふぁちっく』の主催を務めています。
今回、旧来の友人である竹宮猿麿氏から執筆のお誘いをいただきました。
ちょうど趣味について綴るブログが欲しいなぁと考えていたのもあり、快諾いたしました。

何を記事のトピックスにするか考えながら、自室のPCデスク前で船を漕いでいましたが、その時間は1分もなかったと思います。
というのも、私はゲームを布教するのが大好きです。
面白い作品について、誰かと感想を共有したくなりますし、さらに面白いと思った作品が他人にとってもそうであるならば、これ以上の喜びはないわけです。
なので、ゲームについて書きます。

 

ゲームにはじめて遭遇した頃や状況は、世代によって様々だと思います。
私のゲーム体験のはじまりは幼稚園に通っていたころ、父親が叔父より引き取ってきたというスーパーファミコンでした。
大量のタイトルと共に譲り受けられたのもあって、『ロマンシングサガ3』や『ドラゴンクエストⅢ』や『クロノトリガー』などの名作RPGを父親がよくプレイしていました。
人のプレイを見ながら、あーだこーだ言うのがとても楽しく、また唯一無二の親子間交流でもありました。
そうやって多感な幼少期をゲームに囲まれていたので、ひとよりも思い入れが大きめです。

最近は社会人になり、お金や時間をそこそこ確保できるようになったので、アメリカのValve Corporationが運営するゲーム販売プラットフォーム『Steam』やPS4を利用し、自分でプレイすることも増えてきました。

 

これから皆さんに紹介したいのは、主にインディーズと呼ばれる個人や少人数グループによって制作されたゲーム群です。

インディーズはメジャーなゲーム群よりも、掘って掘って輝きを秘めた原石を探す楽しさがあります。ハズレを引くこともありますが、それもまた醍醐味です。

今回ご紹介するのは、中国のクリエイターが製作した

『WILL: A Wonderful World(日本語版題:WILL-素晴らしき世界-)』です。

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公式サイトはこちら
日本語での紹介は電撃オンラインのこの記事が参考になるかと思います。
日本向けのパブリッシャーであるPlayismから、日本語版が購入可能です。リンクはこちら

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このゲームは、ジャンルとしてはアドベンチャーゲームになるかと思います。
このジャンルは古くから存在しています。
文字を読み進めて物語を楽しんでいくシンプルなゲームで、大半の作品においては選択肢以外にプレイヤーの干渉の余地がありません。
単純に、プレイヤーが展開をコントロール出来る小説と思ってください。

 

人生の転換点に立たされたとき、あなたもまたどう進んでいくか選択すると思います。
転換点はあなたの生き方を変えるかもしれませんし、何も変えないかもしれません。
この作品には、そんな転換点に立たされる(というか、立たされまくる)12人のキャラクター達がいます。
プレイヤーは、選択によってどん詰まりになってしまったキャラクター達の手紙を受け取り、それを読み解くことで、彼らに何が起こってしまったのか追体験します。

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そしてより良い結末に導くために、出来事を入れ替えることによって問題を解決します。
ときには別キャラクターの手紙と入れ替えることで、キャラクターに本来しなかった別の行動をさせることもできます。
プレイヤーはそういう力を持つ神様なんです。不思議な立ち位置ですね。

 

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面白いのが、画像のように猫の行動を人間側に入れ替えると、意味が変わってくるところです。
猫が持ち上げたはずの干し魚を人間側に入れると、どこからともなく”くさや”が飛び出します。
およそ荒唐無稽な状況ですが、これによってピンチを脱出できるようになるわけです。
その他にも銃をオモチャにすり替えたり、男側にワンピースを着るシーンを入れることで女装させたり……と、様々な方法をもって、状況を打破していきます。
ハッピーエンドを迎えるために、因果関係を入れ替えるわけですね。これが単純ながら面白いんです。
さながらパズルのようにワードをはめかえるだけで、物語がガラリと変わります。
上手く解決できたときはやってやったという達成感と、次はどうなるのかといった物語への興味が尽きません。
自然に次へ次へと進めてしまうため、プレイすると手が止まらなくなります。徹夜には注意しましょう。

 

そもそも選択をやり直せない私たちにとって、あそこでこうしていれば……という後悔はつきものです。
『WILL』は、ときに時間を巻き戻し、再選択することによって解決を試みますが、それとは逆に、選択がいかに重い決断であるか問い直す作品もあります。
プレイヤーが動けば動くほど状況が悪化していく『かまいたちの夜』もその一つかと思います。
こちらは雪山のロッジにおける殺人劇なので、私たちが到底遭遇するシチュエーションではありません。
ですが、プレイヤーとして参加する以上は責任を持たざるをえなくなります。舞台がゲームであっても、選択するのは常にあなたなのです。
この『WILL』も例外ではありません。

ときには残酷な決定をすることもあるでしょう。
砂をかむようなざらりとした不快感が、あなたの中に渦巻く瞬間があるかもしれません。
しかし、こういった”選択”自体を問うのは、最近のインディーズゲームでは珍しくないのです。

次の記事では、この選択することについて、もう少し詳しく語りたいと思います。


誤解のないように言うと、『WILL』にはきちんとエンディングが用意されています。
すべての手紙を読み解き、神様を含めた世界の真実に触れたときの読後感も素晴らしく、きっと思い入れのある作品になるかと思いますので、ぜひプレイしてみてください。


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この作品はザッピングと呼ばれるシステムを採用しています。
アドベンチャーゲームの発展とこのシステムは関わりがとても深く、製作者たちによるインタビュー記事でも言及されています。
興味があるかたは読んでみてください。

アニメソング - bôa「Duvet」

文=竹宮猿麿

 

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筆者の周りにはいつもアニメ好きな友人たちがいたし、今でもそうだ。

これには世代の問題もあるだろう。筆者の世代(1994年前後)は、中学生になるかならないかという時期に「灼眼のシャナ」(2005-2006年)、「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年)、「らき☆すた」(2007年)等の有名アニメを立て続けに浴びせられた。後に中高生の関心と時間をごっそり奪い取っていくことになるニコニコ動画もサービスを開始したばかり(2006年12月)だった。

筆者の中学校の運動会では「ハルヒ」のオープニング曲「ハレ晴レユカイ」のダンスが三年間連続で踊られていたし、当然筆者も今も多少踊れる程度には踊らされた。「けいおん!」の第一期(2009年)が放送されたときは軽音部に入る人間が急増加し、その影響でロックを聴いたりギターに触れるようになった学生がたくさんいた。

そのような時代を通過し、オタク側に位置する友人知人たちに囲まれて生きてきたにもかかわらず、筆者はアニメを心から好きになることができなかった。好きな人々がオタク側なので好きになれるよう努力してきたが、アニメを好きになる才能にはついに恵まれなかった。だから、アニメという文化には負い目を感じ続けていて、今でも機会があればなるべくチェックするようにしている。

 

先日、アニメ「Serial experiments lain」(1998年)を全話一気に観た。

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そのときは日本酒の飲み過ぎでべろんべろんになっており、隣で一緒に観ている友人に向かって「ねえこれつまんない! つまらないよね? ねえ!」と意味もなく絡んでいたが、内心では冷静に「これはたしかに面白いかもしれない」と思っていた。

諦念にも似た倦怠感のある仄暗い雰囲気、訳は分からないが独特な世界観を垣間見せてくれるストーリー展開、時々唐突にやってくる洗練された演出の一場面。全体的には作品としてしっかりした出来だとは言いにくいものの、ワンクールの放送だけで二十年後の現在まで語り継がれるカルトアニメになるだけのことはあった。

だが筆者の関心を強く引いたのは、作品本編よりも、話の冒頭で毎回流されるオープニングのほうだった。一言では表現できない「lain」の世界観をもっとも分かりやすく表現しているような気がしたからだったが、それにしてもやけに音楽が格好いい。特に終わりあたりの切なげな雰囲気が、友人宅から帰宅した翌日もずっと忘れられなかった。

Googleで調べてみると、それはbôaというイギリスのロックバンドが歌っている「Duvet」という曲だと判明した。bôaについてはWikipediaと「lain」でシリーズ構成を務めた小中千昭氏によるこの記事に詳しく書かれている。興味のある方はぜひ参照してほしい。

ところでこの記事によると、小中氏は「Duvet」を初めて聴いた際に地味だと感じたそうである。

その点は筆者も同じだった。

最初に聴いたとき、聞き慣れないタイプのサウンドと歌唱だったので実はあまりよく理解できず、派手な部分があるわけでもなかったので、まさしく小中氏と同じく地味という感想を抱いた。「アニソンってのはもっとこう、景気がいいものなのでは」という偏見があったことは否定できないが、それでも筆者と小中氏の最初の印象はあながち間違ったものではないように思われる。「Duvet」は良くも悪くも内向的な曲なのだ。

だからこそ、一話一話と観るなかで繰り返し聴くうちに「Duvet」の魅力が分かるようになってきた。ボーカルの、わずかに哀愁を帯びながらも無表情で平然とした歌声は、たしかに分かりやすい抒情性を欠いているかもしれない。だがそれゆえに、サウンドのどこか悲しげな雰囲気を一層悲しいものにしているのではないだろうか。

「Duvet」全体としても、あっけらかんとしているようで、陰鬱で、冷ややかで淡々としていて、しかし決して情緒的ではないというわけではなく、むしろ切なさを幽霊のように不確かなかたちで感じさせてくる。それはまさに筆者が「lain」全体から感じた印象でもあった。

いや、逆に「Duvet」を聴いてアニメ本編の雰囲気をそう感じたのかもしれず、もはや「lain」と「Duvet」は筆者のなかでは渾然一体となっている。だから「Duvet」について語るのに「Duvet」だけを取り上げることはできそうになかった。「Duvet」は筆者にとってはロック音楽である以上にアニソン、「lain」のオープニングテーマである。アニソンはひとつのれっきとした音楽であると同時に、アニメの一部でもある。そうした認識が筆者のなかで「lain」と「Duvet」を渾然一体化させてしまったのかもしれない。

ここ最近は毎日「Duvet」を繰り返し聴いている。これが「lain」の一部なのだとしたら筆者は「lain」がそこそこ好きなのだと言えるし、いずれは作品全体を本当に好きになれる日だって来るかもしれない。そして「lain」を通してアニメというもの自体が心から好きになれたなら……そんなささやかな夢を期待感もなく託しながら、明日も「Duvet」を聴くことだろう。

 

「Duvet」とこれまた渾然一体化しているオープニングのアニメーションだが、その最後のシーンが初めて見たときからずっと気に入っている。

 

歩道橋の上で風が吹き、主人公の玲音の帽子が吹き飛ばされてしまう、と同時に烏が飛翔する。ボーカルの歌声が余情とともに引いてゆき、烏を眺める玲音の顔がアップで映される。吹き飛ばされたはずの帽子はなぜか宙に固定されて微動だにしないが、玲音はそれを顧みることなく、ポケットに手を突っ込んで何事も起きなかったかのように去っていく。

そして、曲調の切なさは終わりを前にして唐突に増し、サイバースペースを思わせる背景に半透明の玲音が現れる。彼女は悲しそうに目を伏せて首を振ったあと、なにかを悟ったかのように斜め上を見、そのまま揺らめいて背景に溶けていってしまう。

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UTAUオリジナル曲 『ホワイトナイト』


文=榊原けい

 

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 このところ、実家付近の景色をよく夢に見る。
 現れるのは薄暗い公共施設や外界の音が遮断された雑木林――私が不登校のころに彷徨っていた場所ばかり――である。

 治療のためと言い張ってアルバイトで生活の諸経費を稼ぎながら大学へ通うことで何かが好転すると考えていた私は、無意識汚染の深刻さを甘く見ていたのだろう。

 けっきょくのところ、その好ましいと忌まわしいとに関わらず、スケールの大小に関わらず、記憶力の続く限りは誰もが自分の過去と共に在り続けるのだと思う。


 不登校のころを振り返ると、混乱と無気力の底へと沈んでゆく私を、当時繰り返し聴いていた曲が食い止めてくれていたように思う。

 

 あらゆる人に心を閉ざすとき、唯一触れ合える他者は作品のみ。

 ありふれた話ではあるけれど、作品によって心が救われることもあるようだと思う事にしている。

 それはおそらく、作品が社会的あるいは公共的に評価できるかどうかといったことではなく、個人的に作品に癒されるとか、そういうことなのだ。

 個人の精神に作品が寄り添う、とか、癒す、とか、そういったことは基本的には評論や批評では語られることがないので、今回はそういうものについて書いておこうと思い、書いてみる次第だ。

 

 私にとってのそういった作品はいくつかあるのだが、N・W・レフン監督『ドライヴ』やNas『Purple』、Nujabes『Lady Brown』など、と挙げてみるとどうも音楽に多いらしい。

 ダウナーな情感を醸し出すメロディラインをもつもの、といったような傾向性は見出せるけれど、それだけでは不十分な気がする。

 本記事では、上記のような経緯でお世話になった曲を紹介したいと思う。

 

www.nicovideo.jp

 

 ナカノは4番という人の『ホワイトナイト』という曲である。

 脆さと甘やかさのあるメロディラインに、意味するところこそ汲み取れないものの語り手の苦しみを暗喩したような歌詞、そして人間ではないボーカル。
 私はその曲に色々なものを見ていた。冬が訪れる直前の、乾いた空気の中に充満する腐葉土の匂い、桃白色の空、正体の解らない懐かしい匂いがする風。

 そうして思い起こされたイメージや曲の情感に少なくとも私は助けられたし、皆さんにとってもそういった作品があれば、Twitterやブログなどを通してシェアしてみるのもいいかもしれないと思う次第だ。

 

 記事の最後に、作者の方のほかの作品やSNSへのリンクを貼って締めくくらせていただきます。

 それでは。

 

 

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【雪歌ユフ】 hp 【オリジナル】 - ニコニコ動画

 

【重音テト】 Sky High 【オリジナル】 - ニコニコ動画

 
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活動日誌 - あいみょん『君はロックを聴かない』

文=秋津燈太郎

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どうも、抒情歌の秋津燈太郎です。つい昨日、抒情歌内で会議が開かれましたので、本日はその報告をいたします。

文フリの報告ひとつすらしないのに今更かよと思われるかもしれませんが、それというのも日頃から活動を応援してくださっている方々に、お前らは一体なにがしたいん?どこを目指しているんだね?まだ解散してないの(笑)?などと頻繁に尋かれるからでして、まあ、知るかよ死ねとしかぶっちゃけ答えようがないのですが、活動の様子をご覧に入れて、せめて雰囲気だけでも伝わればいいなぁと目論んでいるわけです。

主な議題は「グラティアのレイアウト」と「あいみょん」です。まずはレイアウトについて。

我々は春と秋の文フリの年2回、グラティアという文芸評論同人誌を発行しています。主に文学を中心とした芸術全般への評論や、詩や小説などの文学作品を掲載しており、ラテン語で「恩寵」を意味する誌名のように、読者のより良い生活に少しでも寄与できればとの思いで作られております。

創刊号の執筆者は主宰の榊原けい、広報の竹宮猿麿、そして私の3人なのですが、先日発行したvol.3からは多塩卵が加わり、次号のvol.4ではゲスト寄稿者としてさらに2名ほど増える予定です。

こうして見ると徐々に規模が拡大しているように見えますし、実際、巻を追うごとに掲載作品も良くなってはいるものの、本自体のデザインはいまだに素人まるだしで改良の余地があるのです。たとえば、表紙、目次、扉絵、奥付などと議論のポイントは枚挙にいとまがないわけですが、今回は作品のレイアウトの方針を話し合いました。

おおまかな流れとして、美意識を優先させる小説などの文学作品と、情報の伝達を優先する評論は目的が異なる以上、それぞれのレイアウトを考案した方が良いのではないかという前提がまず決まります。それを踏まえ、評論は情報を見開きで一瞥できた方が良いやら、小説と散文はvol.2で決めた1段組のレイアウトを基本線にした方が良いやらと、ほんの少し具体的な方針まで固まったわけです。

結局、本日の話し合いを踏まえて榊原が実作したものを、メンバー全員で調整するという結論に落ち着きました。実はこのリアルタイム編集、毎号なにかしらでやってる方法でして(表紙など)、おしゃれの欠片もないくせにミリ単位の調整にこだわり、容赦なくリテイクを突きつける我々にとっては効率が良いのです。

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ここまでは良いとして、読者にとって謎なのはおそらく「あいみょん」ではないでしょうか。

ご存知ない方に向けて簡単に説明しておきますと、あいみょんは1995年生まれのシンガーソングライターで、2015年に「貴方解剖純愛歌〜死ね〜」をインディーズデビューした後も作品のリリースを重ね、2017年には「君はロックを聞かない」でFM Q LEAGUE AWARD 2017を受賞するなど、順調にミュージシャンとして進化し続けています。若者を中心に支持を集めているとテレビで観ましたが、かくいう私も少し前から通勤中に曲を聴いたりMVを観たりしているひとりです。

あいみょん - Wikipedia

 

なぜに会議で彼女の話をしたかというと、若者向けの音楽をちかごろ聴いているらしい広報担当の竹宮が彼女を好みだと言っているのをtwitterで見て、彼と音楽の好みが一致するのはかなり珍しいものですから、嬉しくなって話題を振ったからです。まあ、実際に彼とした話はうろおぼえなので本記事では書きませんが(笑)、その代わりにあいみょんの魅力を私なりに書かせて頂きます。

上に貼り付けた「君はロックを聞かない」という曲は女子(「君」)への片想いを歌った曲です……と書けば、世に溢れる有象無象のラブソングと変わらないように見えますけども、この曲の真髄はふたりのこころの遠さを「ロック」という音楽ジャンルで表している点にこそあります。詩に物語は特になく、寂しそうな「君」を励まそうと自身の好きなロック音楽を聴かせるという一幕だけで構成されています。さりとても、彼女はどうやらロックが好きではないらしく、一見なんでもなさそうな嗜好の違いに語り手は気を揉みます。

君はロックなんか聴かないと思いながら

少しでも僕に近づいてほしくて

ロックなんか聴かないと思うけれども

僕はこんな歌であんな歌で 恋を乗り越えてきた

クラシック、演歌、ロック、ポップス、ヒップホップ、アニソンなどなど、音楽のジャンルはまさしく数えられないほどあり、本人の気質や、家庭環境、あるいは周囲の人間などによりどれを好むか変わります。

とりわけ、情報の取捨選択が個人にゆだねられている現在において、好きでもなければ興味もないジャンルの曲をみずから聴くひとは少ないでしょう。たかが好みの違いと侮るなかれ、たったそれだけの違いが深い断絶を生みかねないのです。

ところで、本曲の主要モチーフである「ロック」そのものはどのように表現されているのでしょう。

「埃まみれ ドーナツ盤には あの日の夢が踊る」とあるように、あくまで古さや在りし日の象徴として描かれています。2017年にはヒップホップ/R&Bがロックの売り上げを越えましたし、2005年に発表されたポルノグラフィティの「プッシュプレイ」という曲で「かつてロックが発明された時代 混沌とした世界が敵で 勝負の見えてきた現代は 立ちはだかる壁も探せない」と歌われているように、革新や新機軸の象徴としてのロックは終わっていると認識されてもいるので、過去の遺物として見做すのはきっと正しいのだと思います。そのうえで、「(君は)ロックなんか聴かないと思うけれども」などと逆説を多用してロックへの愛着を匂わせるのですが、気になる彼女が同意を得られないのを承知でロックへの愛情を歌うさまは、好意を素直にぶつけるラブソングというよりも、甲乙つけがたいふたつの想いを秤にかけて葛藤しているように見え、胸が締め付けられる気分です。

 

史上初!!2017年はヒップホップ/R&Bが、ロックより売れた!コーチェラのヘッドライナーからロック枠が消えた理由か?!|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

 

「君はロックを聞かない」のMVがあえてひとむかし前の機材で撮影されていたり、80年代から90年代にかけての流行語をふんだんに取り入れた「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌」を発表したりしているので、過去に対する意識や愛着がそもそも強いアーティストだと言えるのかもしれません。もしくは、ここ2〜3年の間にインスタントカメラが若者に流行っているように、世紀末の文化と向き合う時期が丁度いまなのかもしれない、とも。

 

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www.camera-girls.net

Web漫画 - のむぎ『コンビニ弁当は腐らない』

文=竹宮猿麿

 

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コンビニ弁当は腐らない-のむぎ

 

【『コンビニ弁当は腐らない』とは】

『コンビニ弁当は腐らない』は、自作漫画・小説のコミュニティサイト新都社で2009年頃から掲載されている未完結の漫画です。ジャンルとしては「近未来SF」に該当します。

作者はのむぎさんという方です。当作品以外も新都社に掲載している他、ツイッターもされているようです。

全雑誌(作品一覧) - Web漫画とWeb小説の新都社

のむぎ (@_nomugi) | Twitter

 

【『コンビニ弁当』のダークな世界観】

作品の大筋は、「某国」に占領されて二十年経った日本で「僕」が二十歳の女性「カンリー」と一緒に生活する話です。彼らの暮らす社会は、秩序はあっても平和はなく、空気と雨は化学物質で汚染されています。カンリーの身長が80センチ程しかないのも胎児の頃に有害物質にさらされた結果なのだそうです。日本国内での貧富の格差は激しく、国土と人々は某国の「実験」に捧げられ、水道水は浄水されておらず、動物愛護地域の住民たちには動物を殺す権利が与えられています。

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笑うと歯がボロボロのカンリーは母親に疎まれていて「僕」のところへ捨てられます。保護した犬が毒殺されたのをきっかけにカンリーと一緒に引っ越そうとした「僕」は、中央区住民に対する某国の新薬実験(自分たちへの事実上の死刑宣告)が決定されたことを知り、絶望したのか「帰ってきてから何もしゃべ」らなくなります。某国サイドの監視員である元英雄の「ワン・コー」は中央区住民に脱出ルートを教えようとしますが、中央区住民達からの罵声を前に帰ります。

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【『コンビニ弁当』における食事、生、社会】

この作品ではしばしば食事に関するシーンや台詞が出てきます。作中世界の食べ物は腐らず、人々はクローンの野菜や肉を食べます。「僕」はブタニクとキャベツを買い、カンリーは「僕」の作った料理を食べます。上手く食べることができず、ポロポロ落としてしまいます。街にはクジラの肉を売る店があり、監視員のご馳走は赤犬です。それらの光景は作中人物たちの環境の異様さを際立たせると同時に、あちらとこちらの世界を繋ぎ、彼らの生活に奇妙な日常的リアリティをもたらしています。

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『コンビニ弁当』の作中社会の食べ物は腐りません。生ものが腐らないのは時間の停止を象徴しているかのようです。実際、作中の日本社会には未来がありません。むしろ死の気配ばかりが立ち込めています。食べ物は本来、生を支え、象徴するもののひとつであるはずです。それなのに、作中においては、汚染されているせいで腐らないという一点によって象徴内容を逆転させています。腐敗した社会で腐らない食事を食べる存在、それが「僕」とカンリーなのです。

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そのような環境下であるにもかかわらず、殆どの場合は目の前の現実を淡々と受け止め、自分たちなりに生きていこうとする登場人物たちの生は、他者とのコミュニケーションによって紡がれていきます。そのコミュニケーションを主に媒介するのが他ならぬ食事です。腐らない食事が社会の腐敗を象徴すると同時に「僕」とカンリーの生を繋いでいる、とは皮肉な話ではないでしょうか。

そもそも、もしまともな社会であれば二人が出会うことはなかったでしょう。あらゆる関係の根源にあるこうした偶然性は、大事な隣人が本来は他の人物でもありえたことを突きつけてきます。しかし、人間はなにかしらの媒介のもとにコミュニケーションを重ねていくなかで「この人こそが私の隣人である」という必然性を互いに獲得するのです。一人と一人が必然性のもとに並んで二人になること、そのような二人の繋がりは一般的には関係と呼ばれています。その点では『コンビニ弁当』は、お互いのことをなにも知らない「僕」とカンリーが一つ屋根の下で隣人関係を結んでいくという、「共同体の起源」に関する近未来的な神話なのかもしれません。

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また、こう言うこともできるのかもしれません。まともではない社会で人々が自分たちの関係を原初的な形態にまで押し戻して再構築している状態、全体的な繋がりを失った社会が人々によって基礎的な営為へと還元されることでなんとか崩壊はせずにすんでいる状態、というのを『コンビニ弁当』は予期せずシミュレーションしているのだと。その点において、『コンビニ弁当』は人間社会が実は食卓を中心に成立していることを示唆しているように見えます。人間が食事をともに分かち合うかぎり、社会は崩壊寸前までいっても案外維持されるのかもしれません。食卓を囲むことには希望があると言えるでしょう。その希望とは「未来のない社会に生きる人々ですらも抱くことができる」希望、「失われた未来が回復される可能性だけは失わずにすむことから来る」なけなしの希望です。その意味では暗く淡々とした雰囲気の『コンビニ弁当』は本来、死の横で人間が人間的な関係を人間らしい食事風景のなかで取り戻していく話なのかもしれません。そう思うと、この作品が未完結なのはとても惜しいことです。

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文芸同人誌 - 短歌同人誌『ひとまる』

文=秋津燈太郎

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■短歌同人誌『ひとまる』とは

HPや同人本誌に公式の経歴がないので私の知りうるかぎりの情報になるが、1998年以降に産まれた同世代歌人たちによる同人サークルで、メンバーはそれぞれ早稲田短歌会や九大短歌会など様々なサークルに所属しているようだ。公式twitterのbioに「武田穂佳以降」と書かれているように、1997年生まれの年の歌人である武田穂佳さんへの意識をメンバーそれぞれ抱いているのかもしれない。

 

■収録されている連作について

本誌は同人メンバーたちの連作と、座談会と評論からなる企画の二部で構成されている。

笹井宏之さん、岡野大嗣さん、木下龍也さんの作品しか現代短歌を知らない私にとって、各12首からなる連作は非常に新鮮だった。5・7・5・7・7の規則を解りやすく遵守しなくても良いことを実感したし、すべての連作が固有の音楽を持ち、モチーフの使い方にも詠み手の歴史が顕れていて読み応えがある。

恋愛にまつわるあれこれを詠む「相聞歌」が連作集の大半を占めるなか、久永草太さんの『不在』が特に印象に残った。癌に蝕まれた祖母の死を詠んだ本作は、死者を悼む「挽歌」と一般的には呼ばれる。

相聞歌より挽歌の方が優れているわけでは当然ないし、どちらの方が難しいと言うつもりなど毛頭ない。恋愛や慕情という普遍のテーマを扱う相聞歌のように、生物みなの宿命である死と向き合う挽歌もまた、かなしみの表現が押し付けがましくなったり、過剰に凝った言葉をもちいて厭味な雰囲気を帯びたりしがちなのである。

久永さんの作品はその壁を超えているように観える。作者主体と作中主体のどちらの実感なのかは不明であるにせよ、連作の一首ずつに詠み手の固有性(主体のかなしみ)が顕れているし、モチーフのひとつひとつに秘められている記憶(外部のかなしみ)と誠実に対峙しているのだ。

何首か紹介したい。

 

そこにもう火のにおいなく病室に鞴(ふいご)がひとつ動きを止める

 

祖父の手は痩せたヤモリの自棄(やけ)に似てスミレ図鑑を棺に入れる

 

水切りののちにその名を説きながら弔花を生けるひと不在なり

 

 

■高校短歌から大学短歌へ

豊富な企画のなかでとりわけ興味深く読んだのが、「高校短歌から大学短歌へ」と題された座談会である。参加者は九大短歌会の石井大成さんと、早稲田短歌会の染川噤実さん。大学のサークルに所属しながら研鑽されているおふたりは、高校生のときから短歌を詠むだけでなく、チームで歌の優劣を競いあう短歌甲子園にも参加していたという。

高校文芸と大学文芸のちがいを身を以て知っている彼らの対談はまず、短歌における高校生らしさについて語る。おふたりが共に感じていたのは、「高校生」という社会的立場に合わせて主体を形成していくきらいがあること。(与太話。大学時代の私は文芸サークルに所属していたのだが、女子高生どうしの交流を描いたとある部員の作品を合評している際に、参加者から発せられた「女子高生に何かを見いだすのはやめろ」という嘆きはいまだに忘れられない)

その実例として、染川さんはご自身が高校時代に詠んだ歌をあげる。

 

くちびるに校則違反を塗りつけて誰かに気づかれたい春になる

 

高校から大学に進学したあと、染川さんは高校時代には詠みづらかった性愛を扱う歌を作り、石井さんはひとり暮らしをテーマに創作するようになるのだが、そのような立場から高校文芸というシステムを振り返ると、同世代ではなく短歌に知悉していない大人が入賞作品を選んだり、あるいは短歌甲子園で勝つための歌を詠まざるを得なかったり(勝負の緊張感により良い作品が生まれることもあるとも述べている)するので、自己表現という点で難があるようだ。しかしながら、審査員を唸らせる技術と作者性の両立も大切であるとしたうえで、雑誌や新聞に投稿するなりして「高校」という枠組みを飛び出すことの重要性も述べている。

以上が私なりの要約である。

 大学入学後に文学の道を志した私にとって未開の地だった高校文芸の生態系を知れたのは何よりの収穫であった。

ところで、短歌甲子園平安時代の歌合を思わせる。歌合の詳細はwikipediaを参照してほしい。(より深く知りたい方には、国文学者である竹西寛子の『日本の文学論』をおすすめしたい)

歌合から生まれた判詞が「幽玄」や「有心」という後の日本文学につらなる批評概念を産み出したように、若者の青春をいろどる短歌甲子園が後世の文学会をより良いものにしてくれることを願うばかりである。

歌合 - Wikipedia