抒情歌

2017年に設立した同人サークル抒情歌のブログです。主に文学フリマで『グラティア』という文芸同人誌を頒布しています。

Web漫画 - のむぎ『コンビニ弁当は腐らない』

文=竹宮猿麿

 

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コンビニ弁当は腐らない-のむぎ

 

【『コンビニ弁当は腐らない』とは】

『コンビニ弁当は腐らない』は、自作漫画・小説のコミュニティサイト新都社で2009年頃から掲載されている未完結の漫画です。ジャンルとしては「近未来SF」に該当します。

作者はのむぎさんという方です。当作品以外も新都社に掲載している他、ツイッターもされているようです。

全雑誌(作品一覧) - Web漫画とWeb小説の新都社

のむぎ (@_nomugi) | Twitter

 

【『コンビニ弁当』のダークな世界観】

作品の大筋は、「某国」に占領されて二十年経った日本で「僕」が二十歳の女性「カンリー」と一緒に生活する話です。彼らの暮らす社会は、秩序はあっても平和はなく、空気と雨は化学物質で汚染されています。カンリーの身長が80センチ程しかないのも胎児の頃に有害物質にさらされた結果なのだそうです。日本国内での貧富の格差は激しく、国土と人々は某国の「実験」に捧げられ、水道水は浄水されておらず、動物愛護地域の住民たちには動物を殺す権利が与えられています。

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笑うと歯がボロボロのカンリーは母親に疎まれていて「僕」のところへ捨てられます。保護した犬が毒殺されたのをきっかけにカンリーと一緒に引っ越そうとした「僕」は、中央区住民に対する某国の新薬実験(自分たちへの事実上の死刑宣告)が決定されたことを知り、絶望したのか「帰ってきてから何もしゃべ」らなくなります。某国サイドの監視員である元英雄の「ワン・コー」は中央区住民に脱出ルートを教えようとしますが、中央区住民達からの罵声を前に帰ります。

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【『コンビニ弁当』における食事、生、社会】

この作品ではしばしば食事に関するシーンや台詞が出てきます。作中世界の食べ物は腐らず、人々はクローンの野菜や肉を食べます。「僕」はブタニクとキャベツを買い、カンリーは「僕」の作った料理を食べます。上手く食べることができず、ポロポロ落としてしまいます。街にはクジラの肉を売る店があり、監視員のご馳走は赤犬です。それらの光景は作中人物たちの環境の異様さを際立たせると同時に、あちらとこちらの世界を繋ぎ、彼らの生活に奇妙な日常的リアリティをもたらしています。

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『コンビニ弁当』の作中社会の食べ物は腐りません。生ものが腐らないのは時間の停止を象徴しているかのようです。実際、作中の日本社会には未来がありません。むしろ死の気配ばかりが立ち込めています。食べ物は本来、生を支え、象徴するもののひとつであるはずです。それなのに、作中においては、汚染されているせいで腐らないという一点によって象徴内容を逆転させています。腐敗した社会で腐らない食事を食べる存在、それが「僕」とカンリーなのです。

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そのような環境下であるにもかかわらず、殆どの場合は目の前の現実を淡々と受け止め、自分たちなりに生きていこうとする登場人物たちの生は、他者とのコミュニケーションによって紡がれていきます。そのコミュニケーションを主に媒介するのが他ならぬ食事です。腐らない食事が社会の腐敗を象徴すると同時に「僕」とカンリーの生を繋いでいる、とは皮肉な話ではないでしょうか。

そもそも、もしまともな社会であれば二人が出会うことはなかったでしょう。あらゆる関係の根源にあるこうした偶然性は、大事な隣人が本来は他の人物でもありえたことを突きつけてきます。しかし、人間はなにかしらの媒介のもとにコミュニケーションを重ねていくなかで「この人こそが私の隣人である」という必然性を互いに獲得するのです。一人と一人が必然性のもとに並んで二人になること、そのような二人の繋がりは一般的には関係と呼ばれています。その点では『コンビニ弁当』は、お互いのことをなにも知らない「僕」とカンリーが一つ屋根の下で隣人関係を結んでいくという、「共同体の起源」に関する近未来的な神話なのかもしれません。

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また、こう言うこともできるのかもしれません。まともではない社会で人々が自分たちの関係を原初的な形態にまで押し戻して再構築している状態、全体的な繋がりを失った社会が人々によって基礎的な営為へと還元されることでなんとか崩壊はせずにすんでいる状態、というのを『コンビニ弁当』は予期せずシミュレーションしているのだと。その点において、『コンビニ弁当』は人間社会が実は食卓を中心に成立していることを示唆しているように見えます。人間が食事をともに分かち合うかぎり、社会は崩壊寸前までいっても案外維持されるのかもしれません。食卓を囲むことには希望があると言えるでしょう。その希望とは「未来のない社会に生きる人々ですらも抱くことができる」希望、「失われた未来が回復される可能性だけは失わずにすむことから来る」なけなしの希望です。その意味では暗く淡々とした雰囲気の『コンビニ弁当』は本来、死の横で人間が人間的な関係を人間らしい食事風景のなかで取り戻していく話なのかもしれません。そう思うと、この作品が未完結なのはとても惜しいことです。

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文芸同人誌 - 短歌同人誌『ひとまる』

文=秋津燈太郎

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tanka-hitomaru

 

twitter.com

■短歌同人誌『ひとまる』とは

HPや同人本誌に公式の経歴がないので私の知りうるかぎりの情報になるが、1998年以降に産まれた同世代歌人たちによる同人サークルで、メンバーはそれぞれ早稲田短歌会や九大短歌会など様々なサークルに所属しているようだ。公式twitterのbioに「武田穂佳以降」と書かれているように、1997年生まれの年の歌人である武田穂佳さんへの意識をメンバーそれぞれ抱いているのかもしれない。

 

■収録されている連作について

本誌は同人メンバーたちの連作と、座談会と評論からなる企画の二部で構成されている。

笹井宏之さん、岡野大嗣さん、木下龍也さんの作品しか現代短歌を知らない私にとって、各12首からなる連作は非常に新鮮だった。5・7・5・7・7の規則を解りやすく遵守しなくても良いことを実感したし、すべての連作が固有の音楽を持ち、モチーフの使い方にも詠み手の歴史が顕れていて読み応えがある。

恋愛にまつわるあれこれを詠む「相聞歌」が連作集の大半を占めるなか、久永草太さんの『不在』が特に印象に残った。癌に蝕まれた祖母の死を詠んだ本作は、死者を悼む「挽歌」と一般的には呼ばれる。

相聞歌より挽歌の方が優れているわけでは当然ないし、どちらの方が難しいと言うつもりなど毛頭ない。恋愛や慕情という普遍のテーマを扱う相聞歌のように、生物みなの宿命である死と向き合う挽歌もまた、かなしみの表現が押し付けがましくなったり、過剰に凝った言葉をもちいて厭味な雰囲気を帯びたりしがちなのである。

久永さんの作品はその壁を超えているように観える。作者主体と作中主体のどちらの実感なのかは不明であるにせよ、連作の一首ずつに詠み手の固有性(主体のかなしみ)が顕れているし、モチーフのひとつひとつに秘められている記憶(外部のかなしみ)と誠実に対峙しているのだ。

何首か紹介したい。

 

そこにもう火のにおいなく病室に鞴(ふいご)がひとつ動きを止める

 

祖父の手は痩せたヤモリの自棄(やけ)に似てスミレ図鑑を棺に入れる

 

水切りののちにその名を説きながら弔花を生けるひと不在なり

 

 

■高校短歌から大学短歌へ

豊富な企画のなかでとりわけ興味深く読んだのが、「高校短歌から大学短歌へ」と題された座談会である。参加者は九大短歌会の石井大成さんと、早稲田短歌会の染川噤実さん。大学のサークルに所属しながら研鑽されているおふたりは、高校生のときから短歌を詠むだけでなく、チームで歌の優劣を競いあう短歌甲子園にも参加していたという。

高校文芸と大学文芸のちがいを身を以て知っている彼らの対談はまず、短歌における高校生らしさについて語る。おふたりが共に感じていたのは、「高校生」という社会的立場に合わせて主体を形成していくきらいがあること。(与太話。大学時代の私は文芸サークルに所属していたのだが、女子高生どうしの交流を描いたとある部員の作品を合評している際に、参加者から発せられた「女子高生に何かを見いだすのはやめろ」という嘆きはいまだに忘れられない)

その実例として、染川さんはご自身が高校時代に詠んだ歌をあげる。

 

くちびるに校則違反を塗りつけて誰かに気づかれたい春になる

 

高校から大学に進学したあと、染川さんは高校時代には詠みづらかった性愛を扱う歌を作り、石井さんはひとり暮らしをテーマに創作するようになるのだが、そのような立場から高校文芸というシステムを振り返ると、同世代ではなく短歌に知悉していない大人が入賞作品を選んだり、あるいは短歌甲子園で勝つための歌を詠まざるを得なかったり(勝負の緊張感により良い作品が生まれることもあるとも述べている)するので、自己表現という点で難があるようだ。しかしながら、審査員を唸らせる技術と作者性の両立も大切であるとしたうえで、雑誌や新聞に投稿するなりして「高校」という枠組みを飛び出すことの重要性も述べている。

以上が私なりの要約である。

 大学入学後に文学の道を志した私にとって未開の地だった高校文芸の生態系を知れたのは何よりの収穫であった。

ところで、短歌甲子園平安時代の歌合を思わせる。歌合の詳細はwikipediaを参照してほしい。(より深く知りたい方には、国文学者である竹西寛子の『日本の文学論』をおすすめしたい)

歌合から生まれた判詞が「幽玄」や「有心」という後の日本文学につらなる批評概念を産み出したように、若者の青春をいろどる短歌甲子園が後世の文学会をより良いものにしてくれることを願うばかりである。

歌合 - Wikipedia

Web漫画 - くらっぺ『春出汁』

文=竹宮猿麿

 

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春出汁-top

 

【『春出汁』とは】

『春出汁』は自作漫画・小説のコミュニティサイト新都社で2009年から掲載されている漫画で、完結はまだしていません。

作者はくらっぺ(倉金篤史)さんという方で、現在は月刊漫画雑誌コミックリュウで『PiNKS』、女性向けの月間漫画雑誌フィールヤングで『はぐちさん』を連載なされています。この記事によれば2013年に『PiNKS』で商業デビューを果たされていたらしく、『春出汁』を初掲載した当時はまだプロには成られていなかったようです。かつてはサイトを運営なされており、現在はツイッターで情報を発信なされています。

宵待ち坂

くらっぺ (@qurappe) | Twitter

 

作品の大筋は、大学を中退した無職の「八千代」が仕事を探しながら人と出会っていく話です。派手な事件が起きるわけでもなければ複雑な人間関係が展開されるわけでもなく、物語はゆったりした速度で進行していきます。眠たくなる春特有のやわらかい情緒に覆われた街、ささやかなエピソードの連続、断片的な思考、いわば「抽象化された日常」が前景に押し出されている作品だと言うことができるでしょう。

そうした曖昧な世界観には2000年代前後にあった当時の「気分」、具体的には社会学者の宮台真司が『終わりなき日常を生きろ』(1995年)で述べていたような「終わりのない日常が永遠に続く」ことに対する、当時の社会の倦怠感が反映されているのかもしれません。とはいえ、最近のニュースやサブカルチャーからはそうした気分がだいぶ失われつつあります。平成の終わりが終わりなき日常の終わりなのだとしたら、いまだ完結する兆しのない『春出汁』とは一体なんなのでしょうか。

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漫画はふつう、刺激的な導入部で読者の関心を引きつけ、読めば読むほど面白くなっていくように物語の流れを構成し、クライマックスで名残惜しさや感動がこみ上げてくるようにしてくることが多いように思います。しかし『春出汁』は読者に感情的な起伏を与えることなく、日常の範疇を出ない物事を淡々と描いていきます。その点ではいわゆる「日常系」と呼ばれる作品群と似た様式を持っており、作中世界には静謐な安寧が付与されるわけですが、『春出汁』が「日常系」と異なるのは街に不穏なサイレンの音が鳴り響く点です。繊細な八千代はそこに「誰かの不幸」を読み取ります。「誰かの不幸」とは言い換えれば誰かの日常の崩壊であり、それは八千代の家からそう遠くない場所で起こっています。後にサイレンの音は「誤報」だったと作中で噂されますが、それでもなお不穏な空気は拭われることがありません。

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この作品はよくまとまっているとは決して言えません。だからといって作品の体をなしていないというわけではなく、むしろ、作品の様々な要素が『春出汁』特有の雰囲気を創出し、それが作品全体を包括することですべてがひとつに丸く収まっているのだと言えます。つまり、八千代というキャラクターからなぜか滲み出ている倦怠感、二十歳前後のモラトリアムにありがちな生活の浮遊感、作品を特徴づけている淡い配色等々、それらの要素を同時に示すことを通し、実際の作中では桜と台詞でしか春を表現していないにもかかわらず、『春出汁』は春の情緒を立体的に出現させているのではないでしょうか。

そもそも、春ないし季節というものそのものが曖昧なものです。春を基調とした『春出汁』の2018年現在の世界はかえって、全体の曖昧さなしには成立しえませんでした。その曖昧さとは、八千代の大学中退の理由という物語の出発点の曖昧さであり、火事によって日常を掻き乱された「誰か」という外部的存在や「誤報」の噂の曖昧さであり、作品そのものがまだ完結していないことから来る物語の先行きの曖昧さです。これらは「日常系」と呼ばれた作品群の持つ曖昧さとは質的に異なります。

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先程も申し上げたとおり、この作品は未完結です。2009年から掲載されているのにまだ四話までしか進んでいないことから、完結はおそらくありえないのだと思います。そのことは作品世界の春と主人公のモラトリアム的日常を千代も八千代も続くものとし、作品全体のノスタルジックな情緒を一層引き立てるかのようです。現実の時間は進むばかりで帰ることがなく、平家物語の時代から人間は得るよりも失うことを必定としています。だからこそ『春出汁』の物語が一向に進まない現状にはむしろ安堵を覚えなくもありません。とはいえ、人間には未来を求める性質があるため、初めて読んだ当時から筆者はずっと更新を心待ちにしています。それも既に数年の月日が経ちました。かつては日本の各所で展開されていたはずの曖昧な世界をそのままにしながら、社会は平成の次の時代へ移行しようとしています。

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Web漫画 - 『はるこ少女期』

文=竹宮猿麿

 

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はるこ少女期

 

【なぜWeb漫画について書こうと思ったか】

Web漫画のなかには漫画雑誌に掲載されているプロの漫画に劣らず面白い作品があるにもかかわらず、それらはネット社会のなかでもなぜかあまり知られていません。

その理由のひとつは「色々たくさんありすぎるから」だと筆者は考えています。Web漫画の多くは良くも悪くもアマチュアの漫画家が自由に描いたものであるため、それぞれ質も内容もひどくバラバラです。となると読者の立場からすれば、自分の満足できそうな漫画に辿り着くまでには面倒なリサーチ作業が必ずあることになります。面倒くさいことを人間がわざわざしたがる道理はありませんので、Web漫画界の混沌とした状況が面白いWeb漫画作品の知名度向上を妨げているのは想像にかたくありません。

だからこそ、Web漫画作品は読者たちによって継続的に宣伝されていく必要がありますし、そうした名目をだしに昔(もしくは最近)読んだWeb漫画をブログ内で好き勝手に語ってみたいと思った次第です。

 

【『はるこ少女期』とは】

『はるこ少女期』は自作漫画・小説のコミュニティサイト新都社で2012年から2年ほど掲載されていた漫画です。作者は(当時の名前は確か)ichiさんという方で、現在は別の名前でツイッターをなされているようです。

一億年惑星 (@sleepfool) | Twitter

 

作品の大筋は、1997年の夏に引きこもりの青年「鳴子」が可愛い幼女「はな」と家族になり、徐々に社会復帰しようともがいていく話です。どこかアニマルセラピーを思わせる構図ですが、母性溢れる幼女に引きこもりの男がひたすら癒やされるという風ではなく、どちらかといえば鳴子が周りの力を借りて自身のトラウマを克服していく「アダルトチルドレン回復譚」なのだと言えます。

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別の言い方をすれば「母親(と不良)によってまともな少年期を送れなかった青年が「男の子」として再起していく話」であり、さらには他サイトでも指摘されているように鳴子とはなのラブコメでもあります。そのため、『はるこ少女期』はトラウマ克服譚とボーイ・ミーツ・ガールの物語構造が合わさった作品だと言えるのかもしれません。その点では古典的な青春物でありながら妙に現代的な面があり、九十年代やゼロ年代に色濃く見られた「男の成熟の難しさ」が現れているかのようです。鳴子の悪戦苦闘に、ジェンダー・ロールを負うことでしか前進を実感できない社会的な〈性〉の大変さが反映されているのは否めません。

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この作品のポイントとなるのは「家族」であり、物語は全体的には主人公の鳴子が自分の家族を再形成していく過程として進みます。別の角度から見れば、鳴子を中心に回復していく家族(一族)の物語でもあるでしょう。その点では群像劇としての側面もあり、『はるこ少女期』というタイトルからは想像できないサブ・ストーリーが物語の後半から徐々に展開されます。

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そのような「崩壊した家族の回復」というモチーフは現代社会におけるコミュニティの崩壊と同期したものであり、「男の子」の回復と「家族」の回復はおおよそでは秩序の再構築を志向しているように思われます。こうした動きは近年の現実世界においては、たとえばアメリカで「極右」のドナルド・トランプが大統領になった出来事に象徴されるものであり、そのドナルド・トランプの選挙スローガンは「Make America Great Again(米国をもう一度偉大に)」でした。現実の政治思想のことはともかく、秩序を再構築する志向とは失われた過去、失われた可能性の回復を求める志向なのであり、『はるこ少女期』の登場人物たちもまた、自分たちの失ったものをなんとか取り返そうと頑張ります。そのため、この物語において人々はなにかを新たに獲得するのではなく、取り戻し、本来ありえたはずだった幸福を再生させることになるのです。こうした点こそが従来の成長譚やボーイ・ミーツ・ガール物から『はるこ少女期』を微妙に区別させるポイントなのであり、作品の現在性なのだと思います。

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Make America Great Again」

ジェラテリア・イル・ブリガンテと、セイヨウヤマモモの蜂蜜

文=秋津燈太郎

https://gelateriailbrigante-blog.at.webry.info/200811/article_1.html

 

料理の評価は状況や文脈に応じておこなうべきだ。

要するに、繊細な懐石料理も大味な駄菓子もそれぞれの領域において鑑賞すべきであって、食べる側の意識と状況次第でどんな物も「おいしくなりえる」と思っているクチなのだ。(そもそも人間はバイアスと思い込みの生き物なので、気の持ち様でいくらでも認識は変わる)

存在そのものを愛してるアイスやジェラートの類はその傾向がより強く、ガリガリくんやジャイアントコーンのようなコンビニアイスから、サーティーワンやコールドストーンといったチェーン店、果てはジェラテリア・アクオリーナなどの名店に至るまで、様々なジャンルのアイスを好んで食べている。

仕事帰りにコンビニで買ったアイスなら甘くて冷たければオッケーオッケー。

記念日のデートで寄った店ならば、食感が繊細で味に深みと広がりがあればよく、欲を言うのであれば、爽やかな酸味のあとに少し遅れて甘みが迫ってくるなどのシナリオまで考慮されているなら最高だ。

上記の「こだわらないというこだわり」は、常に食べたいと思えるアイスは存在しないことの換言でもあるのだが、つい先日、鎌倉散策で立ち寄ったジェラテリア・イル・ブリガンテのジェラートは、そんな庶民的スタンスを木っ端微塵に破壊するような、いついかなるときでも食べたいと心の底から思える素晴らしいものだった。

ilbrigantejapan.co.jp

鎌倉駅東口を出て左側に伸びている小町通りを5分ほど歩いた先にあるこの店は、ホームページを読むかぎりでは多くのこだわりを持っているらしい。化学製品の不使用、原材料の選定、気候によるレシピの変更などなど。(そのほかにも店主の奥様が丁寧に教えてくれたのだが忘れてしまった)

そのなかでとりわけ解りやすいのは原材料で、世界でゆいいつ苦味のあるらしいセイヨウヤマモモの蜂蜜を用いたジェラートは、まさしく絶品の名にふさわしい一品だと断じても良いだろう。

端的に言うと、緻密な計算に基づいて味のシナリオが構成されている。

最初に強いコクを纏った蜂蜜のあまみが押し寄せたかと思うと、野性味にあふれながらも柔らかなウィスキーとよく似た苦味が続く。基本的には強い味で構成しているゆえに、ともすれば後味が残りすぎる可能性も考えておられるのだろう、強烈な甘味と苦味をきれいに溶かす工夫も忘れないのだから感心する。

嬉しいことに、私よりもずっと前にその味に感銘を享けた方がいるようだ。

blogs.yahoo.co.jp

ジェラテリア・イル・ブリガンテで使用しているであろうセイヨウヤマモモ蜂蜜について書かれているページも貼っておこう。イタリア語(だよね?)を読める蜂蜜好きはぜひ。

www.anticaapicolturagallurese.it

時事ネタ 桃

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文=榊原けい

 

 風に漂う沈丁花やきんもくせいの香のかぐわしさに季節のうつろいを感じられるようになり、齢二十をいくつか過ぎてやっと言語化の難しい匂いの領域に少しずつ魅せられ始めた私にとって、スーパーマーケットの青果コーナーに立ち寄った折に旬を迎えた桃のひときわ存在感の強い香に夏を実感したことは最近の出来事の中でも印象的なものとしてあるのだが、桃の香をもう存分に味わってしまいたいという焦がれに似た昂ぶりを鎮め切れず最終的に人を家に招いて桃を食べる会を催すに至ったのは、巷にささやかれる匂いと季節や匂いと変態行動の関係はさておき、なんにせよ再会の良いきっかけだったのだと思う事にしている。

 

 季節の楽しみ方は数あれど、猛暑が日陰者たちを薄暗がりへと追い立てるこの季節、バーベキューや花火といったガラではない私はこの暑さにヒイコラ言わされるだけでなくなんとかして楽しんでやりたいと考えていた。香はそんな矢先のことであったから、桃会は夏へのうってつけの反撃であった。

 

 日程を調整し、お世話になっている先輩数人をお招きした桃会は、私のふがいなさのためにグダグダの進行となってしまった。

 いざ桃を買ってみても、嫁入り修行などしていない身、果実の剥き方なぞ林檎以外に知るはずもなく、結局インターネットに頼ることとなったのだが、農園のホームページから桃の剥き方を解説する動画へのリンクが貼られているのには驚いた。

hishinumanouen.com

 農家の方々によれば桃は皮に近い部分と種の周りが一番うまいのだという。

 私が桃会の参加者に隠れて薄暗い廊下で一心不乱に桃の種をしゃぶる暴挙に出たのは夏のせいとして、剥き方を調べる途中、桃の歴史にまつわる情報にもアクセスすることができた。

www.dole.co.jp

 中国を原産地とする桃は紀元前五世紀から記述に残っているらしく、有史のかなり早い段階でシルクロードを経由して西欧にも広まっていたという。

 日本でもふるくは古事記に登場し万葉集に詠まれるなど、かなり馴染み深い果実としてあるようだ。(青果コーナーで嗅いだ香に胸が締め付けられるような心地がしたのも血のわざやもしれぬと思うとドラマチックな感じがするのでそう思うことにしておく。)

 

向つ峰に立てる桃の木ならめやと人ぞささやく汝が心ゆめ(万葉集

 

葉がくれに水密桃の臙脂かな(飯田蛇笏)

 

白桃や 莟(つぼみ)うるめる 枝の反り(芥川龍之介

 

 ざっと検索したかぎりでは、短歌・俳句に桃が登場する場合、果実としての桃よりも春の季語として桃の花が詠み込まれるケースの方が多いようだ。

 また、果実としての桃を読んだ歌人として笹井宏之などがいる。(この歌人のことは抒情歌の秋津燈太郎さんから教えてもらった。)

 

そのみずが私であるかどうかなど些細なことで、熟れてゆく桃

 

内臓のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす

 

透き通る桃に歯ブラシあててみる(こすってはだめ)こすってはだめ

 

 私は現代短歌にはあかるくないが、熟れやすく柔らかい桃の持つどこか優しく脆いイメージを別のもの(特に心的で緊張感のある事柄)と重ねて詠みあげるおかしみや、「桃(もも)」を末尾に持ってきて音として少しのユーモアを含ませている点など、面白く印象的だと思う。

 

 ほかにも、文学作品における桃という意味では「桃源郷」であるとか「桃太郎」といった各国の伝承にもあるように、桃には神聖性や邪気払いといった要素が見出されていたようである。

 この夏、恋人にフラれた友人や落第した友人がおありの方は(そうでない方も)、桃を買い込んで夕涼みと洒落込んでみてもいいかもしれない。

 

 

ヒップホップ音楽 - Каста『Радиосигналы』

文=榊原けい

www.youtube.com

 

 こんにちは。
 少し前「そういえばロシアのラップを聴いたことがないな」と思い立ち、検索ボックスに「ロシア ヒップホップ」や「russian hiphop」などと打ち込んで色々な曲を聴いてみました。

 とりあえず、聴いたものの中でいいなと思ったものをごく簡単に、何回かに分けて紹介していこうと思います。

 

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 今回ご紹介するのは数日前に筆者のTwitterでも紹介したКаста(英字表記ではKasta)の『Радиосигналы』です。


 英語のwikipediaによると、Кастаはロストフ・ナ・ドヌを拠点に活動するロシアのラップ・グループ。国内の賞の受賞が何度もあり、ニューヨークのヒップホップ――とりわけWu-Tang Clanなど――に影響を受けたとあります。

 

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(かつてはオスマン帝国との交易の拠点でもあった川沿いの街ロストフ・ナ・ドヌは、ロシアの中でもかなり大きな都市であり、工業地帯であると同時に文化的に豊かな町だそうです。)

 

 タイトルの「Радиосигналы」とはエキサイト翻訳によれば「無線信号」を意味するらしく、英訳された歌詞(リリック)をざっと読む限り、悲恋を描いたもののようです。

 

lyricstranslate.com

 

 映画のワンシーンのような陰鬱な雰囲気と緊張感を持つトラックと絞り出すような発声のラップや女性ボーカルの歌声が、独特の哀愁を醸し出しているように感じます。
 自分の使えない言語の歌唱やラップを聴くと、雰囲気やムードといった言語以前の表現が浮き彫りになるような感じがし、特有の楽しみがあります。

 

 ごく簡単な紹介をさせていただきましたが、最後に詳しい情報のあるサイトへのリンクと、Кастаのほかの曲を貼って今回はおわりとしたいと思います。

 

 

www.youtube.com

 

Kasta - Wikipedia

英語版wikipedia(日本語ではkastaに関するページがありません)

 

http://www.rosianotomo.com/music/cd1.htm#kasta

日本語でkastaの略歴やアルバムへのレビューを書いているサイト

 

 

russianmusicnotes.com